はじめの、一歩手前
いつになく真剣な顔をしたリンは座りこんで顎に手を当て、何か考え事をしているように見える。邪魔をしないようにそっと隣に腰かけて、なに考えこんでるんだと声をかけようとした瞬間、リンの顔が勢いよく上がり、迷いなくその視線がオレを捉える。まさかここで顔が上がるとは思っていなかったから驚きのあまり心臓が止まりかける。びっくりするから本当そういうのやめてくれ。
「ねぇ、オビト」
「ん?」
平静を装いつつ乱れた息を整えようとするものの、それもリンの言葉によって無意味なものになる。
「カカシって結婚しないのかな?」
一瞬何を言われたのか脳内処理が追いつかず、口を開けたまま呆けてしまう。
対するリンはといえば、きらきらと光る瞳に疑問と希望とその他諸々をまぜこぜにしてオレの応答を待っている。
なんでそんなことをよりにもよってオレに訊くんだ? と、口に出す前に頭が結論を叩き出す。
オレがカカシに一番近い場所にいて、そして誰よりも理解していると思っているからかと。
どうにも不思議なことだけれど、彼女の中ではオレとカカシはとても仲がいいと認識されている。それこそリンの口からこんなことを問われるくらいには、だ。正直そんなの誤解もいいところだし、それを前提に話を進められるのも勘弁願いたい。というか、オレはカカシよりもリンとの仲を深めたいっての。
答えにくいしどうにかしてごまかしてしまおうかと思ったけれど、リンの視線は真っ直ぐオレに向けられていてごまかそうにも話を逸らそうにもできない雰囲気が漂っている。
男同士なら異性には話せない秘密の共有や色恋事情も知っているだろうという思惑があるのはわかる。わかるけれど、生憎その枠内にオレとカカシは含まれない。含まれるわけがない。そんなの、一緒に任務に奔走したリンならわかりそうなものだけどな……。
第一、カカシの奴が色恋にうつつを抜かすとは思えないし、火影になってからでは会議やら雑務やらでそんな自由に行動ができる時間もないだろう。あれでも木の葉の里を代表する奴なんだし。
もし万が一そんなことになっていたとしても、あの男の隣には異性よりもマイトガイの方がよっぽどしっくりくる。
カカシにしてみればはた迷惑な話だろうけれど、オレとしては少しばかりざまぁみろという気持ちはある。
「ね、オビトはどう思う?」
リンの催促になかなか言葉が出てこない。
さて、何て答えたもんかな。
難しい顔をするオレとは対照的に彼女は慈愛を含んだ表情を浮かべて、優しくそして愛おしそうに言葉を紡ぐ。
「カカシって結婚したら奥さんを大切にしそうだし子どもができればいいお父さんになると思うんだけどなぁ」
「……それは一理ある。けど、そう言うリンもいいお母さんになると思うけどな」
ぼそりとこぼれ出てしまった言葉に慌てて口元を押さえる。
いま、オレ何言った……?
自分の口から出た言葉に驚きつつ後悔する。
何がいいお母さんになると思う、だ。
ここではなんとなく未来の話をすることは憚られている。
所謂暗黙の決まりごとというやつで、死んでいるのに未来も希望もない。既に人生に終わりを迎えた者しかここにはいないのだからそんなことを話してもむなしくなるだけ、という具合のようだ。
オレもこれに関しては大いに賛成だ。夢も、希望も、未来もない、終わりを迎えた人間しかいないこの場所で先行きの明るい話なんて無意味もいいところだ。話しても心は満たされず、むなしさだけが積もるだけ。それなのにオレときたら口が滑るにも程がある。
心の中で大きなため息をこぼすと同時にふと今まで気付きもしなかった疑問にぶつかる。
こんな話題を振られなければそもそも考えもしなかったけれど、そういえばこの浄土という場所でそういう男女の営み的なことってできるのだろうか。
肉体は一応あるといえばあるし鼓動も感じられはするからきっとそういう場面とかになったら体は反応するんだろうけど…………いや、できてもできなくても別にいいのだけれども! いいのだけれども! くそ、消えろ雑念!
一人卑猥な妄想に耽ってしまったことを恥じて頭を左右に振る。どうにかして生まれてしまった邪念を振り払いながら視線を彷徨わせていると、リンはオレの言葉を真に受けてか、頬を膨らませているのが視界の隅に入り込んだ。
「そういうのは、ちゃんと生きてる時に言って欲しかったんだけどなぁ」
死んでしまっているのに今更いい母親になると思うなんて言われても困るだけなのだろう。そりゃそうだ。誰だって困る。
「……生きてる時は色々あって言いたくても言えなかったんだよ」
まるでしがらみがあったかのような物言いをしてしまったけれど、生きていた時は言える度胸がなかったというだけの話だ。我ながらなんとも情けないというのは自覚している。
かくいうリンはといえば先ほどまで頬を膨らませていた割には「ふーん、そっかぁ」なんてあっさりとした言葉で終えてしまい若干拍子抜けしてしまう。リンにしてみればさほど大きな問題でもなかったのかもしれない。
「……はぁ」
今度は我慢できずに本物のため息が口からこぼれ出る。
「どうかした?」
「なんでもない」
生きているときはただ好きなだけでよかった。
例えばその先……告白をして、付き合って、結婚して、子どもをつくって、家族に囲まれて生きていくという未来を見ることはなかった。見ようとも思わなかった。リンのことを好きだと思えている日々が幸せそのものだったから。
ガキ臭かったといえばそれまでだけれど、あの当時は殆どがミナト班で動いていたし、毎日とは言わずとも結構な頻度でリンと顔を合わせることが多かったから一緒にいられるだけでよかった。楽しかったし、嬉しかった。たまにカカシに邪魔をされたりしたけれど、それも今となってはいい思い出だと美化できるほどその件に関してはまだ許しちゃいないからあいつがこっちに来た暁には強めの一発をくれてやりたい。
それに、今まで散々他人をこの手にかけておいて自分だけここで幸せになるとか、そんな勝手が許されるなんて思っちゃいない。そこらへんは一応、弁えているつもりだ。
オレの手は血にまみれていて、死した後もそれは変わらない。ちゃんと自覚している。こうしてリンの隣に居られるだけでもありがたいことなのだから、これ以上を望んではいけない。改めて自分を律する。
「それにしてもオビトがこういう話題に明るいのは意外だったなぁ」
本当に心の底から意外だったのか、リンの声には一切の曇りがない。
「なんでだよ?」
「オビトって恋愛とか興味なさそうに見えたし、あっても話さないと思ってた」
なんだそれ。
興味ありまくりだっての。オレがどんっだけリンのこと好きだと思ってんだ。それこそリンがカカシを想っている以上にオレはリンのことを好きな自信がある。そこは絶対譲れないし譲らない。好きという気持ちまであいつに負けてはいられない。
でも、リンに言われて初めて気付いたけれど、思い返してみればミナト先生としかこんなこと話したことなかった気がする。
そういえばあの当時、恋話をできるような相手って誰かいただろうか。
しばらく頭の中をひっかきまわしてみるも、結論は口にするまでもない。
考えてみればカカシには絶対言えないし、というか言いたくないし、もちろんリン本人にも言えるはずがない。両親もすでにこの世を去っていたから、そうなるとオレのガキ臭い話を真面目に聞いてくれたのはミナト先生だけだった。あの人だけは笑わずに、ちゃんとオレの話を聞いてくれてそして背中を押してくれた。
「オビト……?」
オレが黙り込んでしまったのを不思議に思ったのか、リンが小首を傾げている。
「オレにだって好きな人くらいいる」
だから努めて冷静に返す。
冷静に返すことに気を張っていたせいで若干言葉が固くなってしまったけれどそこは仕方がない。そもそも好きな子が隣にいる状況で自分には好きな子がいるんだ、なんて話できるならしたくない。
「え!? そうなの?」
オレの返答が予想外だったのか、思わぬところで面白い話題を見つけたと言わんばかりにリンはさっきとは違う目の輝きを見せる。今度は混じりっけなしの純度十割の興味だ。
そのまっすぐすぎる視線に耐えかねて咄嗟に視線を外してしまう。
リンの外見は十代の頃のままでオレは大人の姿をとっているから、傍から見れば子どもに押し切られる大人という、なんとも情けない図式となるわけだけれども、こんなの自分の目で見ても情けないことこの上ない。
オレとリンとでは止まってしまった時間に十数年という差があり、肉体はもとより精神年齢にも差は出てくるはず。その言でいけば絶対オレの方が精神年齢を重ねているはずなのにどうしても勝てないと思ってしまう。
情けなさに頭を抱えるオレの心中などお構いなしに、リンは自分の興味に背中を押されるまま言葉を紡いでいく。
「オビトの好きな人って年上の人?」
「……いや」
「じゃあ年下?」
「……同い年だよ」
「そっかぁ! じゃあもしかしたら私の知ってる人かな!」
知っているも何もまさしく当の本人なんだけどな。
心の内で再びため息を吐きだしながら、楽しそうに話す彼女をそっと窺う。その表情はきらきらと輝いていて、ずっと誰かとこんな風に恋話で盛り上がりたかったのかもしれないと思うには十分だった。
「その人ここにいる?」
「……ああ」
「告白とかは? しないの?」
「したところでフラれるのは目に見えてる」
「わからないよぉ! 告白の仕方によってはいいよって言ってもらえるかもしれないよぉ?」
オレは九割方フラれると思うけどな。
若干食い気味で話すリンは本当に楽しそうで、見ている分にはいいけれど話題が話題なこともあって心の中でのツッコミは尽きない。
そろそろしんどくなってきたと微かに思い始めた、その時。
「ちゃんと告白の言葉とか考えてあるの? 本番で失敗しないように今のうちに私で練習してもいいよ!」
「え、いや……」
突然思いもよらない提案に言葉が詰まる。彼女はにこりと笑みを見せて腰に手をやり、任せて! と言わんばかりのポーズをする。いや……任せて! もなにも……。
リンからしてみればこれはあくまでも、ほかの女の子に好意を抱くオレが本番で失敗しないように、と提案してきたもので自分がまさしくその対象であるとは微塵も思っていないし、考えてもいない。……そもそも自分が告白される対象だなんて知っていたらこんな話を振ってはこないだろうけれど。
彼女の優しさはいつもオレを救うけれど、今度ばかりはそれが心を抉る。
だから、ここでオレが返答すべき言葉はこれしかない。
「いやだ」
「なんで?」
まさか断られるとは思ってもみなかったのか、リンの瞳が驚きでいっぱいに見開かれる。
「告白の練習って一人でやるものだろ?」
ただ断るわけではなく、ちゃんとそこに理由をつけなければ彼女は納得しないだろう。適当に口から出たものではあったけれど、言ってみればこれ以上ないほどに的確な理由だった。
「そうなの?」
「そうだろ。大体そういうのは練習してるところを誰かに見られて変な誤解を生むことが多いんだから」
そして今まさしくその練習相手が本命の相手という目も当てられない状況になっているのだから。絶対、練習ではうまくいったんだから本番も大丈夫! って感じでその後ちゃんと告白しても本気にしてもらえないことは想像に難くない。勇気を振り絞って告白したら相手に本気にしてもらえないなんて泣き寝入りじゃすまない。
なんだ、このやるせなさ。
一人葛藤を続けるオレに対し、リンはといえば「そっかぁ、残念」なんてこぼしながらも、言葉とは裏腹に瞳にはまだ輝きが残っている。そんな目で見ても絶対練習なんてしないからな。
「…………」
「…………」
口を噤むオレとそれ以降言葉の続かないリン。結果として妙に重い沈黙に包み込まれることになってしまった。
何か話すべきなんだろうけれど、いったい何を話せばいいのかがわからない。音の出ない口はただただ開いては閉じていくばかり。
「オビトの話に触発されたわけじゃないんだけど、ちょっと私の話を聞いてくれる?」
重い沈黙を破ったのはリンからの方だった。それ自体はとてもありがたかったけれど、この出だしからするとあまり聞きたくない話題であることは想像に難くない。
「私ね、気になってる人がいたんだ」
やっぱりそういう話題になるか……。まあ、そうなるよな。
もしかしてオレ、今から失恋するのか? と言っても厳密には生きていた頃にリンの気持ちには気付いていたからとっくの昔に失恋していたと言えばしていたのだけれど、まさか同じ相手に二度も失恋することになろうとは。しかも今度は明確な言葉をもってしての失恋だ。こんな経験をする人間もそうそういないんじゃないか? こんなの、何度も経験したいなんて思わないし、出来る事なら願い下げたいけれど。
リンの口はゆっくりと語り始めてしまい、割って入るにはもう遅すぎる。今口を挟めば不審がられるだろうし、リンの口調がいつもよりも重いことから相当な決意を持っての言葉なんだろうというのが感じられる。
だけどそんな決意に目を瞑って正直に言ってしまうなら今すぐにでも違う話題にしたい。嫌だ。聞きたくない。
しかし生憎ここに来て以来、リンとばかり話していたせいでもう話題がネタ切れを起こしている状態だ。新たな話題なんて早々見つかるはずもない。
そうこうしている間にも彼女の口からは流れるように言葉が紡がれていく。
「でも私はその人よりも随分先にこっちに来ちゃったんだ。で、その人は今も里のみんなのために一生懸命仕事をしているの」
「……ああ」
知ってるよ。
「あんなに頑張ってるんだもん。幸せになってほしいよね」
「……ああ」
そうだな。
彼女の方は淡々と話しているというのにオレの方は段々と声のトーンが落ちていく。オレだけが、奈落の底に落ちていくような感覚におぼれそうになる。
「…………」
一瞬。
本当に一瞬、リンが寂しそうな笑みを浮かべた――ような気がして、気付けば彼女の小さな体を抱き寄せて両腕の中にしまいこんでいた。
オレにしてみれば結構大胆な行動で自分でも驚きを隠せずにいるけれど、リンにしてみてもかなりの驚きを伴う行為だったらしく「えっ!? あの、ちょっと」なんて慌てた声が飛んでくる。
勢い任せの行動をとったことに対して後悔はしていない。だけどその後のことを何も考えていなかった。とりあえず話を止めることには成功したけれど、これからどうしたらいいんだ。
また何もできないまま、妙な沈黙が訪れてしまう。しかも今度はこれでもかというほど密着している状態だ。ということはつまりオレのこの早鐘の心臓もばっちりとリンに聞こえてしまっているからどう取り繕ってもごまかせない状況になってしまった。
あれこれ云々と考えている間に、腕の牢獄の中でリンが何かを伝えようともごもごとしている。
ああそうだよ、そうだった。簡単なことじゃないか。どうしてこんなことに気付かなかったのだろう。放せばいいんだ。話を止めるという目的はとうに達したのだから。
ゆっくり、恐る恐る両腕の檻を解いていく。そこに現れたのは驚きと焦りが混ざった表情をしたリンだった。
「どうしたの? いきなり引っ張られたからびっくりしたよ」
服で擦れたのか頬にうっすらと擦過傷ができている。その部分をそっと指の腹で撫でると彼女はくすぐったそうに身をよじり、少し困ったように眉を下げて、それでもオレの指をのけようとはしなかった。
「ごめん」
何に対しての謝罪だろう。口を突いて出てきた割にはその理由を続けられない。
急に抱きしめたことか。
頬に傷をつけてしまったことか。
それとも、リンの口からあの言葉を聞きたくなくて強制的に話を遮ってしまったことか。
眉をしかめて、下唇をぎゅっと噛みしめて瞼を閉ざす。苦虫を噛み潰したような、と形容される表情というのは今まさにこれのことなのかもしれない。
ああ、わかっている。わかっているさ。
本当はリンが寂しそうな表情をしたように見えたから抱きしめたんじゃない。そんなのは後付けの理由だ。
先んじて出た思いは、あの話の結末に来るであろう「私はカカシが好きなんだ」という完全なトドメの言葉を聞きたくない、だった。
だから止めた。強制的に。自分勝手に。
聞きたくないから話を遮るなんていい大人がやるようなことじゃない。
だけど……ずっと好きでい続ける子の口から、私は違う人が好きなんだなんて、そんなのちゃんと言葉にしてほしいわけがない。
わかっていた。オレじゃなくて、カカシなんだってわかっていた。わかった上で、それでも好きでい続けることを決めたのはミナト先生に背中を押されたからというのもあった。カカシに負けたくないというのもあった。そしてそれ以上にリンのことが大好きだったから、諦めきれなかった。
浮かんでくる言葉はどれもこれもが口にできない女々しいものばかり。ああ、なんてみっともないんだろう。
「オビト」
名を呼ぶ声にゆっくりと瞼を開けると、両手がやんわりとした温かさに包まれる。自分の手に比べれば随分と小さなそれに、止まった年月の差を嫌でも思い知る。
ふと、リンの表情を見やれば先ほどの続きを述べようと、言葉を探している。
「オビト。私はね、」
言わないでくれ。聞きたくないんだ。やめてくれ。
包まれた手を振りほどいて耳を塞ぎかけた、まさにその時。
今度はふわりと優しい風が吹いた。
驚いて、目を丸くして、言葉に詰まって。
抱きしめられた、と認識する前にリンの口が結末を告げる。
「カカシのことが好きだった。でも、カカシには私以外の人と幸せになってほしいって思う。だって、私はもうこっちに来ちゃってるから。ちゃんと幸せになって、あたたかい家族を作って、それで……できたらおじいちゃんになったころに漸くこっちに来てほしい。そしたら、オビトと私で歓迎しようね」
オレの服に顔を押し付けて、彼女は小さな嗚咽を漏らす。
小さくて掠れて消えてしまいそうな言葉に、フラれるという事実を受け入れたくない、その一心で彼女の言葉を遮った自分がとても小さくて幼くて身勝手であったことを改めて思い知る。
自分の都合しか見ていないオレと、カカシの幸せを心の底から願って、そしてその結末をオレと一緒に歓迎したいと語るリン。本当に同い年なのだろうかと笑ってしまう。何がいい大人だ。十代で時が止まったリンの方がよっぽど大人だ。
彼女の決意にうんともすんとも言えず、ただただオレは口を引き結ぶことしかできない。
その時ふと、頭の中にリンの言葉がよみがえる。
「カカシって結婚しないのかな?」
「カカシって結婚したら奥さんを大切にしそうだし子どもができればいいお父さんになると思うんだけどなぁ」
今になって漸くその真意を理解する。あれはそうなってほしいという強い願望が込められていたのか。
自分はもうこっちに来てしまっていて、現世にはどうあっても干渉はできないから、せめて願うだけなら、と。カカシの幸せをどこまでも願って。抱いた想いにおぼれて泣いてしまうほど、願って、願って、願い続けた。
オレがここに来るまで十幾年。リンはずっと独りぼっちでこの思いを心の奥底にしまいこんでいたのか。
ずっと、ここで。……たった独りで。
「リン」
ゆっくりと彼女の背中に腕をまわす。
ちょっと力を入れれば悲鳴を上げてしまいそうなほど小さくて華奢なその体からは花のような、優しくて甘い匂いがした。
「……っ、……ぅ」
微かに聞こえる涙声に、幼子をあやすように背中を摩る。何度か繰り返していくと、リンの呼吸は徐々に落ち着いていく。
もうここまでくると末期だなと笑うしかないけれど、カカシの幸せを願って泣くリンも好きだ。ああ、そうだ。どうしようもなく、オレはリンが好きなんだ。
カカシの代わりにはなれない。だけどこれだけは言える。もうリンを一人にはしない。もう、独りぼっちじゃないからな。
「……リン。…………リン」
小さな体を壊さないように、でも逃がさないような力加減で抱きしめる。
「オビト……?」
逃げ出しそうな決意をしっかり握りしめる。ゆっくり息を吸って、吐いて。それを一回、二回。そして――
「オレはずっと前からリンのこと、好きなんだ」
ぽつりぽつりとこぼすように、心に浮かぶ言葉を声にして拾い上げる。
「カカシのことが好きでもいい。それでもオレはリンのことが好きだし、ずっと一緒にいるから」
純粋に彼女の涙に背中を押された。今が好機とかそんな打算的な思惑はない。またも自分勝手にオレは自分の気持ちを口にするだけだ。
叶わない。届かない。そんなの初めからわかっている。
だけど一人ぼっちで誰にも打ち明けられずに心の奥底に秘めた想いを綴った彼女に大丈夫、もう一人じゃないと伝えたかった。
カカシの事が好きなのは百も承知で、それすら呑みこんだ上でオレは今も昔もそしてこれからもリンのことが好きで、ずっと――ずっと一緒にいると伝えたかった。
「……えっ、あのっ、ちょっと、オビト!? どういうこと? えぇ?」
突然思いも寄らない言葉を受け取って、腕の中であたふたとしているリンを落ち着かせようとまた背中を摩ってみるも今度は逆効果で彼女のテンションは上がるばかり。
「どういうこともなにも、ずっと前から好きですって言ったんだよ」
「え、あ……っと、うん? ……えぇ!?」
逃げられないように絶妙な力加減で抱きしめているから彼女の表情は窺い知れないけれど、きっと茹蛸よろしく真っ赤になっているのだろう。だって、胸の辺りがやけに熱いのだから。
そしてオレの鼓動はまたも彼女には丸聞こえなのだろう。先ほどよりも、もっと早くうるさい心臓を何とか正常に戻そうと試みるも、どうにもうまくいかない。
ひとしきり大暴れをした後体力が限界を迎えたのか、急に大人しくなったリンの体をそっと解放すると、案の定彼女の頬も耳も目に見えるところ全部が真っ赤に染まっていた。
「オビト」
「うん?」
「あの……その」
ゆっくり、言葉の海から一つ一つ選び取るように、そして選び取った言葉が本当に正しいかどうか確かめながら、リンは小さくポツリポツリと言葉を音にして奏でていく。
「私も……オビトのこと好き、だけど……けど……それはたぶん仲間として好きな気持ちで……ああ、というか私、オビトの気持ちも知らないで、いろいろと……言っちゃって……」
自分の気持ちを明確に、だけどオレのことをなるべく傷つけないように、一生懸命優しい言葉を選んでくれているようだった。
そして先ほどの自分の言葉がオレの気分を害したと思ったのか、リンはごめんなさいと小さく付け加える。その優しさに心がじんわりと満たされていって、そして鼻の奥がツンとして今にも涙が溢れ出てきそうだった。
リンは言葉を続けようとするも、上手く言葉を紡ぎ出せないのか、何度か深呼吸を繰り返す。緊張しているのか、それともこれから告げることがよっぽど心臓に悪いのか。少しだけ苦みを混ぜた表情に、オレの眉間にも一本、二本皺が作られる。
「好きと言ってもらえたことがとても嬉しいのは本当だよ。…………でも、私とオビトの好きは違う、よね」
「……そうだな」
「その違いを抱えたままじゃ……きっとオビトのことを傷つける、と思う」
はっきりとは口にしなかったけれど、きっと優しい死刑宣告だったのだろう。ああ……ちゃんとリンの言葉で終わりを告げられるのってこんなにもキツイもんだったのか。苦しい。痛い。助けてくれ。
今にも泣いて逃げ出したくなる衝動を必死に抑えて、どうにか違うことを考えて気を紛らわせようとする。けれどなかなかそう上手くいくはずもなく、結局はリンのことで頭がいっぱいになってしまう。
なけなしの勇気を振り絞って告白したけれど、そういえばこの後の事とか全然考えてなかったな。今後はどんな顔をしてリンに会えばいいのだろう。……いっその事このまま消えてしまおうか。
ゆっくりと意思が固まりつつあったのに、リンの口から続けられた予想外の言葉に思わず目を見開いて頭が真っ白になる。
「だからね、……みる……」
「え……?」
小さくて、かすれて、消えてしまいそうな声。
もう一度、と促せば真っ赤な顔を更に赤くして戸惑いながらも言葉を紡ぎ出してくれる。
「だからこれからは、その……オビトのこと一人の男の人として見てみるところから……始めてみよう、かな……って」
これは、前向きに捉えてもいいのだろうか。前向きに、オレのことを考えてくれる……と?
リンの少し困ったような笑みにオレも不器用ながら笑みを作った。
*
しまっておこうと思っていた。
心の奥底に固く鍵を閉めて、もう二度と向き合うことはないだろうと思っていた。
それなのに。
「……それは一理ある。けど、そう言うリンもいいお母さんになると思うけどな」
きっかけは小さくこぼされたオビトの一言。
未来を見据えたその言葉はここで口にするには憚られるようなことで、言った本人はとても気まずそうな表情を浮かべていたけれど、そのたった一言で心の奥底にしまいこんでいた想いが一気に溢れてきた。
「私ね、気になってる人がいたんだ」
「でも私はその人よりも随分先にこっちに来ちゃったんだ。で、その人は今も里のみんなのために一生懸命仕事をしているの」
「あんなに頑張ってるんだもん。幸せになってほしいよね」
口からどんどんと言葉が流れ出ていく。小さく頷くオビトはどこか悲しそうで、苦しそうだった。
そして、言葉を切った瞬間。気付けば私の体はオビトの腕の中に閉じ込められていた。
「えっ!? あの、ちょっと」
私の小さな抗議は広くて大きな胸にただただ吸い込まれていく。密着しているからなのだろうけれど、胸の奥から聞こえてくる早い鼓動にオビトの心の声が流れ込んでくるような気がした。
ねえ、オビト。どうして、こんなにドキドキしているの?
言葉を口にしようにも、未だに口元はオビトの服で覆われていてもごもごと声にならない。
時間にして数十秒、感覚的には数十分。
やっと解かれた腕の檻。
「どうしたの? いきなり引っ張られたからびっくりしたよ」
なるべく平常心を心がけて表情を作ってみたけれど、うまく表現できているかはわからない。
伸ばされた指が私の頬を優しく撫でる。さっき抱きしめられたときに微妙にかすり傷を作ってしまっていたらしく撫でられたところが少しだけ痛んで、でもくすぐったくて咄嗟に身をよじる。
「ごめん」
こぼされたのは謝罪の言葉。何で謝られているのかがわからなくて、その理由を聞こうと少しだけ顔を上げるとオビトの苦しそうな顔が飛び込んでくる。
「オビト」
名前を呼んで、オビトの両手を包みこもうとする。けれど私の手では全然覆えなくて悲しくなる。
何時の間にこんなに大きくなっちゃったのかな。昔は私と変わらないくらいの背丈で、手の大きさだって同じくらいだったのに。
ちらりと視線を落とせばそこにあるのは骨ばっていて忍特有の切り傷と噛み傷だらけの手。長い年月を経て作られた手は私の手よりもずっと立派でかっこよかった。きっと、カカシの手もこんなふうに私の知らない歴史を刻んでいるんだろうな。
ちょっとだけ寂しくなってしまう。
「オビト。私はね、」
ずっと秘めていた想い。ここに来たときに終わりを迎えた私の恋心。
この結末を語るには私一人では押しつぶされてしまいそうで、自分勝手にオビトの胸を借りる。
ごめんね、オビト。
少しだけその広くて大きな心と胸を貸してね。
「カカシのことが好きだった。でも、カカシには私以外の人と幸せになってほしいって思う。だって、私はもうこっちに来ちゃってるから。ちゃんと幸せになって、あたたかい家族を作って、それで……できたらおじいちゃんになったころに漸くこっちに来てほしい。そしたら、オビトと私で歓迎しようね」
勢いに任せて言葉を紡ぎ、終わってしまった恋を惜しむように私の両目からは涙があふれてくる。
カカシが幸せになれますように。
それはミナト班の中でここに一番に来た私が最初に願ったこと。もう、私では叶えられない、願うことしかできない大切な人への想い。ずっと、大好きだった。だけど、だけど……さようなら。
「リン」
ゆっくりとオビトの大きな手が背中にまわされる。
「……っ、……ぅ」
幼子をあやすように何度か背中を摩られれば段々と心が落ち着きを取り戻していく。背中を摩られているだけなのにどうしてこんなにも落ち着くのだろう。
「……リン。…………リン」
「オビト……?」
背中にまわされた腕に先ほどよりも力が込められる。まるでこれから言うことから逃げないで、と言わんばかりに。
そして頭上で二度の大きな深呼吸の後。
「オレはずっと前からリンのこと、好きなんだ。カカシのことが好きでもいい。それでもオレはリンのことが好きだし、ずっと一緒にいるから」
何を言われたのか、脳内処理が追いつかなかった。追いつかないまま困惑がそのまま口から飛び出していく。
「……えっ、あのっ、ちょっと、オビト!? どういうこと? えぇ?」
もしかしたら聞き間違いかもしれないという可能性も無きにしも非ずだけれど、きっとそんなタイミングのいい聞き間違いはない。ということは。と、いう、ことは……。
頭の中で何度も何度もオビトの言葉を繰り返して、漸く現実のものとして受け止める。
オビトは私のことが、好き。
意識しだした途端に心が一気に走り出す。
「どういうこともなにも、ずっと前から好きですって言ったんだよ」
「え、あ……っと、うん? ……えぇ!?」
上から降ってくる言葉は落ち着いていて、それに反比例するように私の心中はどんどんと大荒れ模様となっていく。
オビトの腕の檻から抜けだそうと、ひたすら手足をばたつかせてみるものの、体格差のせいもあって一向に抜け出せる気配はなく、体温がどんどんと上がっていく。暴れているせいなのか、それとも突然の告白に動揺しているせいなのかはわからないけれど、顔が真っ赤に染まっているのが自分でもわかる。そしてこんなに密着しているのだから、この熱はオビトにもしっかりと伝わってしまっている。
だけど、オビトも声は落ち着き払っているというのに鼓動は先ほどよりも早くて、動揺しているのは私だけではないということを知らせている。泣いて落ち込んでいた私を励ます為の言葉じゃなくて、本当の気持ちなんだってことを心臓が物語っている。
ひとしきり大暴れをした後、疲れ果ててもう暴れる気力もなくなったところで再びオビトの腕から解放されて顔を覗き込まれる。
「オビト」
「うん?」
「あの……その」
漸く紡ぎ出せた言葉の後が見つからない。
ぐちゃぐちゃにかき乱された心を、どう言葉にしたらいいのかわからない。
何度も口を開けようと試みるも、言葉の定まらない状態では自然と閉ざされてしまう。
オビトは私の言葉を待っている。そして私よりも心中穏やかではないというのはその苦しそうな表情でありありとわかる。もし逆の立場だったなら、この沈黙は耐え難いものだというのも痛いほどわかる。
浅い呼吸を何度か繰り返しながら、整理しきっていない頭の中でとにかく言葉を探し出す。と、同時に自分の心にもう一度向き合う。
私はオビトが好き。今も昔もそしてこれからも変わらない。だけどそれは、所謂仲間として好きという意味のものであって、異性として好きなのかといわれるとよくわからない。
「私も……オビトのこと好き、だけど……けど……それはたぶん仲間として好きな気持ちで……ああ、というか私、オビトの気持ちも知らないで、いろいろと……言っちゃって……」
ごめんなさいと小さく付け加える。知らなかったとはいえ告白の練習をしてもいいよなんて……私はオビトになんてことを言ってしまったんだろう。
そんなの断るはずだよね。だって、練習相手が想いを伝えたい相手なんだもの。
一度言葉を切って今度は深呼吸を繰り返す。ゆっくりと、正確に、自分の思いを口に出していく。
「好きと言ってもらえたことがとても嬉しいのは本当だよ。…………でも、私とオビトの好きは違う、よね」
「……そうだな」
今にも泣き出しそうなくしゃくしゃな表情を浮かべて、オビトは小さく呟く。その様子がまるで死刑宣告を待つ人のようで、私まで胸が苦しくなる。
オビトは、きっと終わりの言葉を告げられると思っている。
だけど違うの。
私がオビトに伝えたい言葉はオビトが思っているようなものじゃない。
最初に浮かんだのは感謝の気持ちだった。
たった一人で抱えていた、おぼれてしまいそうなほど大きくて大切な気持ちの終わりを聞いてくれた。
私がカカシを好きだったと知った上でそれでも私のことを好きだと言ってくれた。
その気持ちが優しかった。嬉しかった。愛おしかった。泣きそうだった。
そして改めて、大切な人だって思った。いなくなってほしくないって思った。
「オレはずっと前からリンのこと、好きなんだ。カカシのことが好きでもいい。それでもオレはリンのことが好きだし、ずっと一緒にいるから」
「どういうこともなにも、ずっと前から好きですって言ったんだよ」
その言葉を、オビトがどれだけの決意を持って口にしたか……私は知っている。知っているからこそ苦しくなってしまう。
オビトが意を決して伝えてくれた好きと私がオビトに対して言葉にした好きは全く違う。そんな、ボタンを掛け違えたような状態でもし仮にオビトの好意を受け取ってしまったら、その違いは少しずつズレを生み出し、いずれは二人の間に大きな溝を作り出すことは火を見るよりも明らか。それでもオビトは隣に居られればそれでいいと言うのかもしれない。
けれど、それではだめだと心の奥底で叫ぶ私がいる。これ以上オビトの好意に甘えるような……利用するようなことをしてはいけない、と。
だから言葉にする。今の私ではオビトの気持ちに寄り添えないことを。
そう、今はまだ――
「その違いを抱えたままじゃ……きっとオビトのことを傷つける、と思う」
異なる視点で見ているのならまずは同じ視点に立ってみよう。一人の男の人としてオビトを見るところから始めよう。
その決意を音に乗せて届けよう。
「だからね、……みる……」
「え……?」
胸が詰まって溶けて消えてしまいそうな小さな声しか出て来ず、オビトが首を傾げてしまう。上手く聞き取れなかったのか、もう一度、と促されて熱い頰に更に熱が集まる。
何度か深呼吸を繰り返して、漸く覚悟を決めて、オビトの反応を見つつ思いを言葉にして紡ぐ。
「だからこれからは、その……オビトのこと一人の男の人として見てみるところから……始めてみよう、かな……って」
優しくて温かい想いに、おっかなびっくりだけど、ゆっくりだけど、歩み寄ってもいい?
少々固い笑みを浮かべれば、オビトもそれに合わせて不器用ながら笑みを見せてくれる。
ありがとう。
ありがとう、オビト。
了