二人の間にある段差はいくつ?


まるでこの世のものとは思えないものを見たときのような叫び声が響く。
任務完了の報告に行く途中でそれを聞いたオレは、すぐさま足を止めて行き先を変更する。
あの声からして尋常ではないことが起こったというのは想像に難くない。誰かが……いや、もしかしたらオレの知っているあの女の子が危ない目に逢っているかもしれない。焦りと不安から胸が痛くなる。
まさか里内で外敵に襲われることはないと信じたいが、万が一ということもないとは言いきれない。考えるだけで背筋に冷たいものが走る。
先の任務で疲弊した足腰に鞭を打ち、ただひたすらに駆ける。駆ける。
そして駆けた先――いかにも何かが潜んでいそうな狭い路地裏の入り口で、肩を震わせて座り込む背中を見つける。あの任務服は間違いない。
まさか、と思っていたことが今、現実として目の前にあって――悲鳴をあげた人物はやはりリンだった。
「リン!!」
「……っ!」
リンはオレの声にびくりと肩を震わせ、恐る恐る振り返る。
その顔は真っ青で、必死に何かを訴えようとしてくるけれど、余程恐ろしいものを見たのか言葉が音になって出てこない。
すぐさま脅威を発見、排除すべくリンのそばまで駆け寄り、視線をあちらこちらへ飛ばしてはみるものの、その存在をいっこうに発見できない。
おかしい……。悲鳴が聞こえてからすぐに駆けつけたから、何者かがいれば鉢合わせる……ことはできなくても、逃げる姿くらいは確認できるはず。
それすらもできなかったということは何かしらの術を使ったのか、目で捉えられないほどの速さでこの場を去ったのか、それとも……?
何にしてもこんなにも痕跡がないのは明らかにおかしい。これはかなりの手練れである可能性が高くなった。
ぐっと奥歯を噛みしめて、いつでも応戦できるように心の準備をしておく。
あたりを警戒しつつ、ゆっくりと膝を折ってリンと目線の高さを合わせると、怯えた瞳がオレの姿を捉える。
「大丈夫か?」
「だ……大丈夫……」
返ってきた弱々しい語気からはとても大丈夫なようには見えないけれど、リンは医療忍者だ。ならばオレよりも自分の調子の把握なんてものは簡単にできるはず。それを踏まえた上で大丈夫と言ってきたのだからこの言葉は信用したい。
本音を言えば大丈夫だとは到底思えない。だけどここで更に心配するような声をかけて余計に心労を増やすのはよくないんじゃないかと思う。
なら、これ以上リンの体調には触れないで、
「何があったんだ?」
と、代わりに核心に踏み込む言葉を投げかければ、リンは強く口を引き結んだ後、覚悟を決めたのか、戸惑いながら自分が陥った状況について説明を始める。
「任務の帰りに、この路地裏から小さな鳴き声が聞こえたの。……それで側まで近付いたら……」
思い出すだけでも相当心に負担がかかるのか、一旦言葉を切ってリンは大きく深呼吸を繰り返す。
急かしてはいけない。
自分の心に言い聞かせて次の言葉を待つけれど、リンの口は開くだけでそこから言葉が出てこない。
リンも一人前の忍だ。大抵のことではここまで追い詰められることなんてないはず。それなのに言葉にするのも辛い、苦しいと感じるほどの脅威に直面し、消耗しきっている。
一体何と遭遇したというのだ。
改めて周囲を見回してみても、何かがいたという痕跡はない。
もう少し詳しい話を聞けないかと口を開いたまさにその時――。
何かの気配を感じてリンを背中に隠し、クナイを構えながら振り返る。
「……!」
そこにいたものにオレの目は大きく見開かれる。
それと同時にリンのこの消耗し怯えた様子にも納得がいき、なぜ姿を発見することができなかったのかも理解する。
こうしてある程度離れていたから気付いたものの、普通、自分の目線よりも下――特に足下にいるものなんて、意識して見なければ大抵は気がつかない。ともすれば一番の死角とも言えるかもしれない。
視線の先――リンをここまで追い詰めた相手をじっと見据える。
そいつは黒く怪しくテカる体とそこから伸びる六本の足、そして奇妙に動く触覚を持っていた。
カサカサと動き回れば悲鳴が飛び交うほど人間に対して影響力を持ち、見た者に不快感と不安感、そして恐怖を否応なしに与えてくる。
一般的に害虫と呼ばれているそいつの名は口に出すことさえ嫌悪感を覚える。
正直言うとうげぇ、という感じだった。できることなら見なかったことにしたかったけれど、対峙してしまったものは仕方がないと諦める。
「…………」
お願いだから飛んでくれるなよ、と心の中で強く願う。
向こうもこちらの出方を窺っているのか、物陰から姿を現したはいいものの、ピクリとも動かない。いや、触覚部分はちろちろと動いているから何かしら感じ取ってはいるのだろう。もしくは動き出すタイミングを計っているのかもしれない。
こいつの機動力、俊敏性を考えれば、オレが動き出してからでも余裕なのだろう。虫相手に負けるというのもなんだか腹が立つけれど、それは純然たる事実で、どうひっくり返ったところでオレがこいつの機動力と俊敏性を上回ることはない。
それにしても見れば見るほど言い知れない気持ち悪さと異様なほどの不安感、恐怖心を煽られる。
相手は虫。それも掌くらいの大きさだっていうのに。――掌?
あれ? オレの目がおかしいのか? それとも幻術の類にでもかけられているのか?
普通、こいつらって大きくても指の第二関節くらいなものじゃないか……?
それなのに今対峙しているこいつはどんなに小さく見積もっても第三関節くらいの体長がある。こいつらってこんなに大きくなるものなのか? ていうか何食ったらこんなになるんだよ! でかすぎだろ! 突然変異か!?
「……オビト」
脳内が軽くパニックになっている最中、背後からリンの弱々しい声が聞こえる。
なんだ、と振り返らずに答えるけれど、リンからの返答はない。
もしかしてオレの困惑がリンに伝わってしまったのか。それともオレがピクリとも動かないことを心配して声をかけてくれたのか。
何にしてもリンの呼びかけで少しだけ頭が冷静さを取り戻す。ありがとう、リン。
落ち着け。相手がちょっとでかいくらいで慌てすぎだ。
それにオレはここを一歩たりとも引けない。
リンが後ろにいるから――というのもあるけれど、それよりも虫相手に背中を見せるような男にはなりたくないからだ。
ここで逃げるのはとても簡単だ。
でも簡単にできることだからこそ後々振り返った時に〝虫相手に逃げた〟という記憶が付いて回る。
将来火影になる男が、こいつ一匹くらいでビクビクしていたらいいお笑い種だ。
特にカカシがこのことを知ったらお決まりの涼しい顔で、「虫相手に何ビビってんの」と言うに決まっている。
そんなの腹が立つし嫌だ。
男としてのプライドがオレの足を地に縫い付ける。
加えて、カカシにはいつも活躍の場を奪われていて、リンにかっこいい姿を見せる機会を減らされている。
だから今、絶好のチャンスを手に入れたも同然なのだ。ここで臆せずこいつを退治できれば、少しはかっこいい姿を見せられる……はず。
それに落ち着いて考えてみれば毒性のある種じゃないし、刺されるような針や肉を噛みちぎるような強力な顎もない。ただ、見るだけで不快になり、飛べば気持ち悪さが増し、そして見たこともない大きさ、というただそれだけ。
臆することなんて一つもない。相手は飛んで、俊敏に動き回るオレの中で不快さ一位のただの虫。それだけの話だ。
一つ大きく深呼吸をして、クナイを握る力を強める。
「……オビト」
リンの震える手がオレの肩を弱々しく掴む。
頼られている……! 今オレは頼られている! これはかっこいいところを見せなければ!
「大丈夫だ、リン。オレがついてる」
一度言ってみたかったセリフを言えたことで、オレのテンションは最高潮に達する。
けれどここで浮かれ切ってはいけない。肩の力を抜け。オレは今敵と向かい合っているのだ。
「…………」
どのくらいの時間が経ったのだろう。
オレと奴はしばらくの間睨み合いを続けているが、お互いに相手の出方を窺うだけで、一歩たりとも動かず、ただ時だけが過ぎていく。
一分、二分。感覚的には五分ほど睨み合った末、遂に決着の時が訪れる。
「……!」
ジリ……、とオレの足が地を滑ったその時。何の予備動作もなく、奴が初速からかなりの速さでこちらへ向かってくる。
狙いを定めてクナイ、続いて手裏剣を投擲するも、奴のその大きさに見合わない俊敏性が、いとも簡単にそれを避ける。
くそ……! 図体が大きいからそこまで速くはないだろうと考えていたけれど甘かった。むしろ今まで見てきた中で一番速い。
ホルスターから次の手裏剣を滑らせて投擲。今度は地面に散らばるゴミに阻まれて失敗。
「……っ!」
オレの背中越しに様子を探っていたリンは奴の姿を視界に捉えた瞬間、小さな悲鳴を漏らして後退する。しかし体調がまだ本調子ではなかったのか、リンの足はもつれ、そのまま地面に倒れこむ。
当然、リンに肩を掴まれていたオレもバランスを崩して尻餅をつく。
予期せぬ衝撃と痛みで一瞬目をそらしてしまう。
その隙をついて、奴は右側の建物の壁を疾走し、あっという間にオレを見下す高さへと登りつめる。まるで勝利宣言をするかのようにその場で止まり、ゆらゆらと触覚を揺らしている。
「この……!」
「待って、オビト!」
手で印を結び、体内でチャクラを一気に練り上げて大きく息を吸い込む。――これでも喰らえ!
火遁・豪火球の術!
「この路地裏は――」
――あ……しまった。
今回のことを簡潔にまとめると、考えが甘かった。というか状況把握が全然できていなかった上に虫相手にムキになりすぎて頭に血が昇っていた。
遭遇した場所が狭い路地裏であったこと。
周りに不法投棄された燃えやすいものがたくさんあったこと。まあこれは捨てるやつが悪いという話になったのだけれど。
あとは標的の大きさに比べて発動した術があまりにも大げさであったこと。
そして何よりオレの術に対する修練度が全然足らなかったこと。
それらの要素が絡み合い、結果としてオレは路地裏一帯を焼き尽くし、消防が出動するような事件を起こしてしまった。
当然ミナト先生や火影様にしこたま怒られ、カカシにはこれでもかという程ため息をつかれ、同窓生にはいい笑い話を提供する羽目になった。
何か言い返そうと思ったけれど、全て的を得ていてぐぅの音も出てこなかった。
「…………」
大きな水たまりにぼんやりと映るのは、黒く煤けた服と情けない表情を浮かべ肩を落とす自分の姿。
こんなつもりじゃなかった。けれど全ては後の祭り。いくら言葉を積み上げてもどうにもならない。
「オビト」
優しく名前を呼ばれ、恐る恐る振り返った先には、リンが僅かに首を傾げながら静かに微笑んでいた。
「助けてくれてありがとう」
「あ……いや、その」
リンの感謝に言葉が詰まる。
勝手に首を突っ込んで結果的に惨事を引き起こし、それに加え周りの人間からはこれでもかと言うほど苦言を呈された。だから当事者であるリンからも何か言われるだろうと覚悟していた。
けれどこうも素直に感謝されるとどこか居心地が悪くなってしまう。
こんなこと考えたくはないけれど、もしあの場にいたのがカカシだったなら、もう少し上手く対処できたのではないか。少なくとも虫相手にムキになって忍術を使うことはなく、手早く最小限の労力で仕留められたと思う。
そして、何よりリンを危険な目に遭わせないで済んだ。
オレのやったことは一歩間違えれば大切な人を傷つけてしまう危ないことだった。
「オレ……」
何を言うべきかわからないまま、口を開く。けれど言葉が続かずに結局口を引き結ぶ。
リンは笑みを崩さずにそっとオレの手を取ると、優しく言葉をこぼす。
「オビトが来てくれなかったら私はあの場から一歩も動けなかったと思う。……だから助けてくれてありがとう、オビト」
向けられた言葉と笑みに、ぎゅっと胸が詰まって、締め上げていた涙腺が緩む。決壊させないようになんとか気を張って、不器用な笑みを作る。
「お……おう!」
「……ふふ」
「……? どうかしたか?」
何事かと首を傾げれば、リンは表情を崩して更に続ける。
「オビトの顔、真っ黒だね」
「……! しょ、勝利の証だ!」
我ながらこの言い分はどうかと思ったけれど、リンはそうだねと優しく返してくれる。

けれど、どう考えてもオレの負けは確実だった。

***
風に流されて消えてしまいそうな、か細い声が聞こえた――ような気がした。
「……?」
最初は任務終わりの疲れからくる幻聴か、それとも似たような音がそれっぽく聞こえたのかと思った。
けれど続け様にまるで誰かを呼んでいるかのような鳴き声が、そうではない、現実だと訴えている。
鳴き声の出どころを探るために右へ左へ視線をやりながら歩き回り、ようやく見つける。
そこは狭い路地裏だった。
雨風にさらされて朽ちているものや苔の生えているもの、最近捨てられたと思われる比較的綺麗なもの――所謂不法投棄された家具や粗大ごみなどがいつ倒壊するかもわからない微妙なバランスを保ちながら積まれていて、生き物が隠れ住むには絶好の場所だった。
最奥まで入るのは難しそうだけど、声の反響などからそんなに奥の方にはいないだろうと推測して、細心の注意を払ってなんとか一歩、二歩と歩みを進めていく。
「そこにいるの?」
声の出所を見つけ、問いかけてはみたものの、当然返事なんて返ってくるはずもなく。逆に私の声で警戒をさせてしまったのか、一切鳴き声が聞こえなくなってしまった。
失敗したなぁ……。
相手は野生動物。人間を怖がるのは当然のことだというのに、不用意に声をかけてしまっただけでなく警戒までされてしまった。
ここで無理に引っ張り出そうとしてもきっと応じてはくれない。それどころか暴れられて家具類が倒壊する恐れもある。もしそんなことになれば大惨事になることは間違いない。
私一人ならなんてことはないけれど、ここを住処としているかもしれない動物たちはもしかしたら逃げ遅れる可能性だってある。そう考えると下手に手を出せない状況になってしまった。
「どうしよう……」
悩む心をため息と一緒に吐き出す。
どうしようも何も、このまま放っておけばいいというのは頭の隅で理解している。人間が中途半端に野生動物に関わることは、両者ともに良いことなんて一つもない。
そんなことわかっている。けれど……けれど、あの鳴き声が耳の奥から離れない。誰かに助けを求めているかのような、小さくてか細い声が。
結局どうしても気になってしまって、しばらくの間壁に背中を預けて、むこうの警戒心が薄れるのを待つ事にした。
「…………」
どれくらいの間そうしていたのだろう。
時間潰しにいいかと姿形を徐々に変えながら空を漂う雲を見ていたけれど、それにも若干飽きだして大きな欠伸をこぼす。それが契機となって蓄積された疲労と日差しが自然と瞼を重くさせる。
ゆったりとした時間の流れに身を任せそうになった、まさにその時だった。
待ち望んでいた声がはっきりと耳に届けられる。
慌てて首を振って頭を覚醒させて、下がりかけていた視線を上げると、家具の隙間からひょっこりとその主が顔を出す。
「こんにちは、猫ちゃん」
私の呼びかけに、仔猫はニーと鳴いて何度か瞬きをする。
手を差し伸べてもいいものか一瞬躊躇したけれど、仔猫の方から私の方へ歩み寄ってくる仕草を見せる。それならば、と私の方も手を伸ばして応じる。
仔猫の体が隙間から出きったと同時に黒く光るものも一緒に飛び出てくる。それが何なのか瞬時に判断ができなくて目を凝らす。
一見すると小さな子どもの履物かと思えるそれはふらふらと触覚を――……触覚?
「――っ!」
その触覚の主を私は知っている。私のみならず、大抵の人は知っている。
目の前のそれをきちんと認識して、認識してしまったことをとても後悔した。
鳥肌が全身を駆け巡り、体が硬直する。唯一動く口が恐怖と不安を一緒くたにして吐き出す。
自分でもこれほど大きな声が出るとは思わなかった。
私の声に驚いて仔猫は逃げ出し、一緒に出てきた名前すら呼びたくないあの虫はちょろちょろと触覚を動かした後、目にもとまらぬ速さで元いた隙間へと戻り、静観の姿勢を取る。
一刻も早くこの場を立ち去りたい……!
その思いが前面に出すぎて、背後の確認すら惜しんで急いで足を引けば、踵が引っかかり尻餅をつく。それでも少しでも距離をとりたくて手足で地を押し、蹴る。
何あれ……。いや、私の目がおかしくなければあれはたまに台所とかで見かけるあの虫のはずだけど、それにしたってあの大きさは何……? 新種? 突然変異?
私の知る中で、今遭遇したあれは通常の二倍くらいの大きさだった。あんなの見たことない……!
「リン!!」
「……っ!」
漸く路地の入り口まで来たところで背中に切羽詰まった声がぶつかる。その勢いに驚いて一瞬肩が上がる。
恐る恐る、ゆっくりと振り返ると血相を変えたオビトが駆け寄ってくるのが見える。その姿がとても頼もしく見えた。
駆けつけてくれるオビトに状況を説明しようとするも、言葉が出てこない。恐怖心からか、それとも過度の心労からか、私の口は言葉を発せない。
なんとか平常心を取り戻そうと努めるけれど、私の心臓は未だに高鳴りを続けている。
「大丈夫か?」
オビトの心配する声は優しさに溢れていて、その瞳はしっかりと私を見据えている。それが私の心をゆっくりと解していく。
「だ……大丈夫……」
自分でも不思議だった。オビトのたった一言が、眼差しが、言葉を取り戻させてくれた。
「何があったんだ?」
オビトの踏み込んできた一言に一度口を引き結ぶ。
けれどここで黙っていても事態が好転するとは思えないし、それにいつまたあれが出てくるとも限らない。オビトにもちゃんと状況説明をしておかなければ、いざという時に対処できない。
大丈夫。ちゃんと言えるはず。
「任務の帰りに、この路地裏から小さな鳴き声が聞こえたの。……それで側まで近付いたら……」
そこまで言葉にできたものの、肝心なことを言おうとするとどうしても突っかかってしまう。なんとか深呼吸をして言葉を出そうとするものの、心がそれを拒否しているかのように続きが出てこない。オビトは辛抱強く待っていてくれるけれど、私の口はただただ開くだけで言葉を紡ぎ出すことができない。
不意にオビトが動く。
どうしたの、と口が動く前に私の体はオビトの背中によって守られる。突然のことに目を白黒とさせながらも、オビトが臨戦態勢に入り、クナイを構えたということだけはわかった。
けれど、それ以外の情報が全く入ってこないために、今どういった状況になっているのかが把握できない。
オビトの視線と体はまっすぐ路地の方へ向いている。ということは、あれが出てきた……?
想像するだけで全身に鳥肌が立つ。
決してあれが私の命を脅かすものではないとわかっているのに、ただ視界に入るだけで不快感を、拒否感を嫌が応にも呼び起こす。
「…………」
いったいどれくらいこの状態が続いているのだろう。両者ともにぴくりとも動かない。
正確にはオビトの背中しか見えていないから、実際にオビトが何と向かい合っているのかはわからない。
背中越しに確認しようと思えばできるけれど、いつオビトが行動に移すかもわからないし、こうして背中で守られている以上、下手に私が動いて、いざオビトが動く時になって邪魔をしては元も子もない。
それに、たぶん相手が人間や動物であったのならここまで膠着状態にはならないはず。
ならば自ずと相手は見えてくる。
こうして長い間出方を窺っているのは、あれの特徴でもある長い触覚がちろちろと動いて状況を把握しようとしているからで、オビトもどう動いたらいいか決めかねているからだと思う。
しかもむこうはこちらが動いてから行動に移しても余裕で間に合ってしまうほどの機動力と俊敏性を兼ね備えている上に空も自在に飛んでしまう。
だとしたらこの膠着状態も頷ける。
誰だってあれが動き回ったり空を飛んだりするのを良しとはしないだろうし、私だったら悲鳴をあげないとは言い切れない。先ほどもあの姿を見ただけで叫び声をあげてしまったし。
「……オビト」
「なんだ」
たったそれだけのやりとりなのに肌がひりつく。
まるで自分よりも強敵と遭遇したかのような緊張感がオビトから感じられて二の句が続かない。
少しだけ怖い、とすら思ってしまう。こんなにも真剣な表情を浮かべ、そして殺気を放つオビト、初めて見た。
けれどすぐに思い直す。オビトは今、私の代わりにあれと対峙してくれているのだ――と。
今の私では何もできないけれど、せめて感謝の言葉は伝えなければ。
そっと、驚かさないようにオビトの肩に手を置く。
「……オビト」
ありがとう、と口にする前に、
「大丈夫だ、リン。オレがついてる」
と、遮られてしまい言うに言えなくなってしまう。
そして再び沈黙の時が訪れ、凡そ五分ほどの睨み合いの末、いよいよ決着の時が訪れる。
「……!」
オビトの腕が勢いよく動き、手にしていたクナイを、続いて手裏剣を投擲する。しかしそのどちらも標的には当たらなかったのか、オビトは次の手裏剣をホルスターから滑らせる。
こうなると私が後ろにいたのではオビトの動きを制限してしまう。
オビトから距離を取ろうとしたところで全速力でこちらに向かってくるあれの姿を見てしまう。
「……っ!」
その瞬間、私の足は反射的に後退を始め、意図しない動きに頭が追いつかず、もつれてそのまま地面に倒れこむ。当然、手を肩に置いていたものだからオビトも体勢を崩して尻餅をつく。
ごめん、と伝える前にオビトの目は壁にまで到達していた標的へと向けられる。
「この……!」
オビトの指が素早く印を結ぶ。あの印はとても見覚えがある。けれど、それは今ここで使うにはあまりにも危険な術。
「待って、オビト! この路地裏は――」
燃えやすいものがたくさんある。
あの仔猫同様ここを住処にしているかもしれない動物が――。
言い終わる前にオビトは大きく息を吸い込み吐き出すと、火球が路地を襲い、あっという間に炎がまわる。
不運なことに、ここに不法投棄されたものはそのほとんどが木材でできたものだった。それに加えてここ数日雨も降っていなかったから乾燥具合も丁度良く、豪火球の術のような炎の塊がぶつかれば瞬く間に燃え広がってしまう。
結果として、オビトの放った豪火球の術は路地裏一帯を焼き尽くすこととなった。
当然消防が出張ることとなり、完全鎮火に一時間ほどかかった。
焼け跡からは何も出なかった。というよりも火の勢いが凄まじくて例え何かがあったりいたりしても消し炭になっていただろう、と消防のおじさんが話してくれた。今となっては知る術はないけれど、おじさんの、焼け跡からは何も出なかったという言葉を信じて、あの場に標的以外の生き物はいなかった、よかったと二人で胸を撫で下ろす。
けれどその安堵もオビトにしてみれば束の間のことで、報せを受けて急ぎ駆けつけた、静かに怒る火影様と状況がわからないミナト先生に事情を説明して、オビトは二人にこれでもかというほど怒られることとなった。
流石に不法投棄に関しては捨てる人間が悪いという話にはなったけれど、状況判断力の乏しさ、標的に対しての攻撃手段が適当ではなかったこと、そして何よりオビトの術に対する修練度が足りていなかったことが挙げられて、とても理論的に畳み掛けられていた。
その間、オビトは決して私のことを話そうとはせず、ただじっとお叱りの言葉を聞いているだけだった。
元はと言えば元凶は私なのに、どうして……。
弁明をしようにも、三人の間には不可侵の雰囲気が出ていて話に入れず、結局オビト一人だけが怒られてお終いとなってしまった。
「…………」
鎮火現場に佇むオビトの背中は明らかに落ち込んでいた。
私はあの背中になんと言葉をかけたらいいのだろう。
ごめんなさい?
大丈夫?
災難だったね?
そのどれをとってもオビト一人を悪者にしてしまっている気がして、それは違うと私の心が訴える。
それよりも私が真っ先に言わなければならない言葉がある。一度オビトに遮られてしまった、まだ言えてなかったあの言葉。
「オビト」
私の呼びかけにオビトは気まずそうにゆっくりと振り返る。
「助けてくれてありがとう」
「あ……いや、その」
困った表情を浮かべて、オビトは視線を右へ、左へ彷徨わせる。まるでお礼を言われることが不相当であるかのように。
「オレ……」
絞りだされた言葉を拾って、黒く煤けたオビトの手を取る。
「オビトが来てくれなかったら私はあの場から一歩も動けなかったと思う。……だから助けてくれてありがとう、オビト」
駆けつけてくれてありがとう。
私の代わりに退治してくれてありがとう。
できるだけ明るい笑みを作って、先程言えなかった分の感謝の言葉を伝える。
それを受け取って、オビトは戸惑いながらも、
「お……おう!」
と、にかりと笑う。
ふとオビトの顔を見てみれば、煤で真っ黒になっていた。それがあまりにもおかしくて、つい堪えきれずに吹き出してしまう。
「……ふふ」
「……? どうかしたか?」
私が突然笑い出したものだからオビトは不思議そうに首を傾げている。
「オビトの顔、真っ黒だね」
私の指摘に今度は少し慌てた様子でオビトは言う。
「……! しょ、勝利の証だ!」
それはどうだろう、と思ったけれど親指を立てて白い歯を見せるオビトを見て、私はそうだねと緩く笑った。


「あれ? オビト、今日は任務じゃなかった?」
「ミナト先生こそ明後日までの長期任務だって聞いてましたけど?」
火影執務室前の廊下。
まさかこんなタイミングで顔を合わせるとは思ってもみなかった人とばったり遭遇して、目が合った瞬間に二人して呆けてしまう。
言葉を探して頭の中をひっかき回していると、
「廊下を通る人の邪魔になるからちょっと端に寄ろうか」
と、ミナト先生に促されてカニ歩きで端まで寄る。
「それで、今日はどうしたの?」
まるで途切れたことを感じさせない自然な流れで会話が再開されて少し戸惑う。
「あ、えっと……実は任務日程が変わって急に非番になっちゃって……」
「そうか……。まあ、それは仕方ないね」
オレの担当任務の内容を知っていたのか、それとも自分にも似たような経験があったのか、ミナト先生はそれ以上言葉を続けず、苦笑いを作る。それにオレも同じような笑みを作って応える。
そう――。本来であればオレは今頃任務で里を出ているはずだった。
けれど、いざ出発する段階になって火影様から緊急の呼び出しがかかった。
出発直前の呼び出しに嫌な予感しかしなかったけれど、呼ばれてしまった以上は行かないわけにはいかない。仕方なしに執務室まで行き、そこで依頼主から急遽日程の変更がされたことを伝えられた。
今回の任務は里外へ講演に行く偉い先生の護衛で、日程なんてものは先方の都合次第で簡単に変わってしまうことはわかっていた。だからいつでも対応できるよう緩く日程が組まれていた。それなのにその予定すら綺麗さっぱり流してきたというのだ。
ただでさえ緩い日程を組まれて他の任務に就くことができなかった上に、事前に何の相談もなしに変更されたことで言葉が出てこなかった。
お偉い先生や地位の高い人が任務内容や日程をこちらに相談もせずに、まさしく横暴に変更してくることはたまにあることだけれど、流石に任務開始当日になって変更してくることは珍しい。
こんな土壇場での日程変更なんて、分別を弁えた大人はまずやらないだろうし、オレたちだって機械仕掛けの絡繰りじゃないんだっての――等々、言いたいことは山ほどあったけれど、今回はたまたまそういう自分の都合しか考えていない人に当たってしまった、運が悪かったと思うしかない。そう、自分自身に言い聞かせた。
結局のところ依頼主から変更だと言われてしまえばそれに従わざるを得ない。どんな人間であろうと、依頼主であることには変わりはないのだから。
火影様もこの件に関しては苦い顔を崩せないようで、終始眉間に皺が寄っていた。
そんなこんなで朝からごたごたがあり、ちょうど執務室を出たところでミナト先生と鉢合わせ、今に至る。
「それでミナト先生がここにいるってことは任務が早く片付いたんですか?」
「ん! そうそう、予想以上に早く終わってね。ゆっくり戻ってきてもよかったんだけど、この間里の外れの森でとても素敵な場所を見つけたんだよ。今夜そこにクシナと一緒に見に行こうかなって思って、全速力で戻ってきたんだ。ああいうのは早いうちに見に行かないとすぐに見られなくなっちゃうからね」
さりげなく惚気も入れつつ、ミナト先生はそうだ、と何かを閃いたかのような仕草を見せる。
それについていけずに首を傾げるオレに、
「オビト。今日の夜は時間あるかな?」
ミナト先生は笑みと共にその質問を投げかけてくる。あまりに唐突な問いに咄嗟に反応できない。
今日の夜……? 元々任務に出るつもりだったから、それが中止となってしまった以上、時間はあるけれど……。
あれ? でも今日の夜ってさっきミナト先生自身がクシナさんとどこかに行くって言ってなかったか? 聞き違いだったのか、それとも自分が言ったことを忘れているのか? いや、流石にミナト先生の歳で物忘れは早すぎないか……?
「えっと……」
言葉に詰まっていると、ミナト先生がちょいちょいと手招きをする。
「ちょっと耳貸して」
言われるがまま少し背伸びをして、ミナト先生はかなり屈んで、さっき閃いたと思われる〝あること〟について教えてくれる。耳にあたる息がくすぐったかったけれど、そんなことは伝えられた内容によってすっかり掻き消えてしまう。
目を見開くことしかできないオレに、
「リンにはオレから伝えておくからね」
と、最後にウィンクをして去って行くミナト先生の後ろ姿がとてもかっこよかった。

夜の森というのはただそれだけで人の恐怖心を煽ってくる。しかもそれがあまり人が寄り付かない森であるなら尚更だ。
ドク、ドク、といつもよりも大きく鳴る心臓は恐怖からくるものか、それともこれから行うリンとの〝あること〟に緊張してのことなのか。
気持ちを切り替えるために、一つ大きく深呼吸をする。
大丈夫だ、大丈夫。怖いことも緊張することも何もありはしない。そう自分に言い聞かせて歩き続ける。
ミナト先生に指定された場所に行くと、既にそこにはリンが来ていた。
「あ、オビト! 今日は遅刻しなかったね」
森の入り口でひらひらと手を振るリンはいつもの任務服ではなく、綺麗な朝顔柄の浴衣を着ていた。とても可愛くて、素敵で、その姿がオレの心臓をぎゅっと鷲掴む。
「リン、その浴衣……」
「これ? クシナさんが貸してくれたんだ。……変かな?」
「全然! 似合ってる!」
食い気味に返せば、リンはにこやかに笑って、
「本当? ありがとう」
と返してくる。その笑みがまた心臓を力強く握りしめる。
このままじゃオレの体がもたない。
「それじゃ、行くぞ」
半ば強引に灯りを前に突き出して森の奥へと進路をとる。
乏しい灯りで足元を照らしながらオレ、そしてリンの順にゆっくりと森の中へ入っていく。暗闇に加えて歩き慣れない森道。いや、道なんて立派なものはない。草木をかきわけ、倒木を跨いで進行しているようなものだ。
「ねえ、オビト」
少し歩いたところでリンから声がかかる。首だけ後ろにやって応答する。
「ん?」
「ミナト先生から夜になったらこの森に集合するようにしか言われなかったんだけど、この森に何があるの?」
「え? あぁ、それは……うぉ!?」
リンとの会話に夢中で足元が疎かになっていたせいで、木の幹に足を取られて転びそうになる。それを懸命に踏ん張ってなんとか誤魔化す。
危ねえ……! リンに恥ずかしいところを見られるところだった。
内心冷や汗を流しながら横目でリンの様子を窺うと、一瞬目が合って、気まずそうに笑って、それから遠慮がちに口が開かれる。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫……」
全然誤魔化せていなかった上にばっちり見られていた。恥ずかしい……。穴があったら入りたい……。
なんとなく言葉が見つからず、二人の間に沈黙が訪れる。
オレとしては気まずさから口を開くことができず、リンはといえばオレと同じ轍は踏まないように、と考えているのか、ちゃんと足元を見て歩いているようだった。
浴衣は借りた物だと言っていたから万が一にも汚してはいけないと気を張っているのかもしれない。
そんなこんなで少しの間訪れた沈黙の時間も、目的地へ到着したことであっという間に終わってしまう。
「……ここ、か?」
ミナト先生から事前に言われていた通り、持っていた灯りを自分の背中側に隠す。慌ててやったものだから若干熱かった。
リンが隣に並び、オレが見ているものと同じものをその視界に入れる。
「綺麗だ……」
「綺麗だね」
ほぼ同時にこぼされた言葉は二人とも同じものだった。
森の入り口から七、八分ほど歩いたところにあったのは少し開けた場所に小さな池。そして……。
「里の外れに森があるのは知っているね? その中に入っていくと小さな池があるんだけど、そこに沢山の蛍がいるのをこの間見たんだよ。オレも今夜クシナを誘って行くからオビトもリンと一緒に見に行くといいよ。蛍は今時期しか見られないから、きっとリンも喜ぶと思うよ。あ、蛍にはなるべく灯りは向けないようにね。そこだけ注意するんだよ」
ミナト先生の言葉通り、そこは淡く光る無数の蛍によって作られる、光に溢れた場所だった。風に流され、揺らめいて幻想的な光景が広がっている。これを綺麗と言わずして何を綺麗と言うのか。
宝石のような豪奢な煌めきではない。人工的に作り出された光のような明確なものでもない。蛍という小さな虫が放つ、淡く、儚く、曖昧な光。
「里の外れにこんな素敵なところがあったんだね」
「ああ、うん……すごいな。こんなに綺麗だとは思わなかった」
「……? オビト、知っててここに連れてきてくれたんじゃなかったの? ミナト先生からはオビトが素敵な場所を見つけたって聞いてたんだけど……」
「え!? あ……そ、そうそう! こ、この間偶然この上を通りかかった時に見つけてさ!」
「そっか」
なんとか誤魔化しきれたか……? 今度は大丈夫か……? というか、さっきから誤魔化してばかりだな……。
ざわついてしまった心を落ち着かせるために大きく息を吸って、吐いて、小さく頭を振る。意識を切り替えて今はこの光景に集中する。
そういえば蛍の寿命は大体一週間から長くて二週間くらいだ、というのを昔、誰かから聞いたような気がする。
長い幼虫期間を経てやっと成虫になれたかと思えばあっという間にその生涯を終えてしまう。しかもその短い期間に子孫を残すべく相手を見つけ交尾をし、雌に至っては産卵という大仕事もやらなくちゃならない。
それに、蛍が光るのは交配相手を探すためとかなんとかって話も聞いたことがある。
ということは今この場は蛍の恋人もとい交配相手探しの場ともなるわけか……。そう考えるとなんとも名状しがたい感情が湧き上がってくる。
完全にオレの一方的な応援になってしまうけれど、頑張れ。頑張ってなんとか相手を見つけろよ!
心の中でエールを送ると、それからしばらくオレたちは時間を忘れてこの光景に見入った。

「そろそろ帰ろうか」
「そうだな」
リンの提案に迷いなく賛成する。けれど、
「この場所のことはあんまり他の人には言わない方がいいかもね」
「どうしてだ?」
リンの真意を上手く読み取れず首を傾げる。
「えっと、オビトは静かに暮らしていたところに突然次々と巨人が現れたらどう思う?」
「……? そりゃ、いやだろ。たとえ何もしなくてもそんな存在がいるってだけで毎日不安になるんじゃないか?」
「そうだよね。きっと蛍たちも似たようなこと思うんじゃないかな?」
「ああ、そういうことか」
リンのたとえ話がとてもわかりやすくて、手を打ち鳴らす。
確かに言われてみればリンの言うことは尤もだ。
普段人目につかないこんな森の中で生きている蛍たちにとって、人間という異物はそれだけでストレスになる。
オレやリンはここにたどり着いた場所から動いてはいないけれど、もしかしたら他の人は考えもせずに蛍たちの住処を踏み荒らしたり、綺麗だと言って捕獲したりすることだってあるかもしれない。
それに自分よりもはるかにでかい存在は、危害を加える、加えないに関わらずただそこに在るだけで不安感を煽る。
蛍だってできることなら今まで通りひっそりと暮らしていきたいと思うはず。……いや、ちょっとそこはわからないけれど、たぶん、きっと。
ミナト先生だって、オレやリンを信頼して、なおかつオレのリンに対する気持ちを知っているからここの存在を教えてくれたわけで、そうでなければ蛍のような環境の変化に弱い生物の住処なんてたとえ仲のいい人であっても教えないと思う。あの人もきっと、人間の都合で無闇に生き物の住処を荒らすようなことを良しとはしないはず。
それならばオレたちがやるべきことは二つ。早々にここを立ち去ることと、この場所を他の人には言わないようにすること。
心を決めてしまえば行動に移すのは早かった。
最後にもう一度この光景を目に焼き付けて、綺麗だった、ありがとう、と心の中で呟く。
「それじゃ戻ろうか」
リンから合図が出される。それに応じて、静かに踵を返した。

池から少し歩いたところで、ふと、リンの足が止まる。
何かあったのかとオレも足を止めて振り返ると、リンは来た道――木々の隙間から覗く蛍の光をじっと見つめている。何かを見つけたのかとオレもその視線の先を見るけれど、何も見つからない。
「オビト」
「ん?」
呼びかけに応じたはいいけれど、その後いくら待ってもリンの口からその続きが出てこない。
なんだ……?
「あ、えっと……ここ、二人の秘密の場所にしようね」
「……おう」
嬉しさとむず痒さで胸が詰まって、蚊の鳴くような声でしか返事ができない。それに加えてなんだか気恥ずかしくてリンの顔を直視できない。
あちらこちらへ彷徨う視線。それが下に行くことで初めて気がついた。
下駄だ――と。
行きは自分のことで手一杯だったけれど、よく考えれば今のリンの格好ってものすごく歩きにくいんじゃないか?
浴衣はその構造上、小股で歩くことを前提とされているっぽいし、それに加えて履物もいつものサンダルではなく下駄。
こういった、人の手が入っていない森の中は普段着のオレですらいつも以上に歩きにくくなるのに、リンの場合は歩き難さが最大値のような格好だ。
オレが事前に森の中に入ると言っておけば、リンだってそれなりの格好をしてきたのだろう。けれど、うっかりオレがそれを伝え忘れていたものだから、リンは着付けてもらったその格好のまま来てしまった。
それを悪いとは言わない。むしろ事前に伝えなかったオレの方が悪い。
おまけに灯りを持っているのはオレだけだ。
この暗い森の中、月光も期待できず、自分の目もこの暗闇に慣れていないとなれば、頼るものは目の前を歩くオレの背中のみ。
そんなオレが考えなしに自分のペースで歩いてしまったものだから、リンに残された道は一つ。無理をしてでもついて行くしかない。
それなら声をかけてくれれば、と思ったけれどそもそも森の前で会った時に気付いていればよかったという話にもなる。リンの浴衣姿にばかり目がいってしまい、その格好における行動の制約までには頭が回らなかった。
こんな大事なことに今まで気付けないなんて、オレはどこまで浮かれていたのだろう。今日一日の自分の浮かれように心の内でため息を一つこぼす。
今更こんなこと……、とは思いつつもリンにむけて手を差し出す。
「足元、その……大丈夫か?」
差し出された手とオレの顔を交互に見て、リンは頰を緩める。
「ありがとう」
そっと乗せられた手。離さないように少しだけ力を込めて握るとリンの方も握り返してくれる。
おいて行かないでね、と言われたような気がした。
大丈夫だ、おいて行かない。ちゃんと二人一緒に帰ろう。
それを言葉にする勇気はまだなくて、心の中に留めておくことしかできなかった。
出口まではもう少し。一歩、また一歩。オレのあとをリンが追いかけて、やっとのことで出口までたどり着く。
森から完全に出きったところで来た道を振り返ると、そこには暗闇が大きく口を開けていた。
鬱蒼とした、という表現はまさに目の前の森にこそ相応しい。
灯りがなければ一歩たりとも入っていこうとは思えないほどの真っ暗闇。いや、灯りがあっても入っていきたいとは思えない。こんなところを灯り一つで入っていったのかと思うと、今でもぞっとする。
けれど、この奥にリンとの秘密の場所がある。そう考えるだけで不思議と恐怖は薄れていく。
リンの表情を窺おうと少しだけ首を傾けると、ちょうどむこうもオレに何かを言おうとしたのか、ばっちり目が合う。
「オビト、今日はありがとう。私、クシナさんに浴衣を返さなくちゃいけないからここで別れるね。また明日ね」
リンが驚くほど流暢に言葉を紡ぐ。その流れに身を任せる形でオレの口も反射的に返す。
「おう! また明日な!」
自然と解かれた手。何だか少し寂しい。けれどそれはオレが勝手に寂しさを感じているだけ。
オレとリンは恋人同士ではないのだから、いつまでも手を握っているわけにもいかない。
またねと言われてしまえば引き止める理由もない。
どんどん小さくなる背中を黙って見送って、完全に見えなくなってから今度は手のひらに視線を落とす。
何度か夢だったんじゃないかと思いそうにもなったけれど、この温もりは紛れもない本物だ。
まだ余韻が残る手のひらから温もりが逃げないようにぎゅっと握りしめる。
ふと空を見上げると、一筋の流れ星が煌めいた。あっという間に消えてしまったその残滓に向かって声に出さずに自分勝手な願いをぶつける。
いつかまたあんな風に歩けますように。

手を繋いで、二人一緒に。 
***
「きゃー! 似合う、似合う!」
「あ、ありがとうございます」
クシナさんの黄色い歓声に圧倒されつつ、着付けてもらった浴衣でくるりと一周回る。着慣れない上にいつも着ている任務服と違って全然足が開かなくて、ただ一回りするだけでも一苦労。
よろけそうになるのを必死に踏ん張った場面も一度や二度ではない。けれど、そんな私のたどたどしい様子を見て、またもクシナさんから声が飛んでくる。
「リンちゃんって着物も似合いそうよね!」
そう言うクシナさんの目はとても輝いていて楽しそうで。その様子を見て私も自然と口角が上がる。
どうして私がクシナさんに浴衣を着付けてもらっているのかというと、事の起こりは二時間ほど前。偶然前を通りかかった反物屋さんで見かけた、ある浴衣から始まった。
薄水色の生地に朝顔が描かれた浴衣。可愛すぎず、かといって大人っぽすぎないそれに私の目は引き寄せられた。
ちょっと足を止めて、見ているだけのつもりだった。
きっと私じゃ上手に着付けられない。だけど、いつかこんな素敵な浴衣が着られたらいいなぁ――という心の声がいつの間にか外に漏れ出ていたようで、それをちょうど居合わせたクシナさんに聞かれてしまった。
それならうちに来るってばね! と、あれよあれよという間にクシナさんのお宅に連れていかれ、そのまま浴衣着付け会と相成った。
どうぞ、と通された居間にはクシナさんが元々持っているものと近所の人から借りたもの等、合わせて十着ほどの浴衣が用意されていた。華やかなもの、大人っぽいもの、可愛らしいもの。どれもこれも素敵なものばかりだった。
これを着付けてもらってその場で一周回り、クシナさんから一言もらうまでが一回。それを今のところ九回立て続けにやっている。
その間休憩は一切挟んでいない。
私は立っているだけだけれど、クシナさんは右へ左へ、前へ後ろへ、浴衣を着付けるために動きまわっているものだから、一回休憩を挟んだほうが……と言いたくなってしまう。
けれどそれを言う前に次から次へと着付けられてしまうものだから、結局タイミングを掴めず、最後の一着になってしまった。
「じゃあ最後はこれね!」
そう言うと、クシナさんは白地に濃淡色の朝顔が描かれている浴衣を手に取った。大人っぽい印象を与えつつも、どこか可愛らしさも隠れているそれはあの反物屋さんで見かけたものによく似ていて、私の目はその浴衣に釘付けになる。
「さっき見てた浴衣と似てるでしょ?」
これ、私のお気に入りなのよ、と続けてクシナさんはにこりと笑みを浮かべる。
「はい、じゃあ後ろ向いてくれる?」
「はい」
もう何度も着付けられているからか、私の動きも慣れたもので、クシナさんの動きに合わせて手足を動かせば、あっという間に着付けが終わる。
クシナさんに姿見で自分の姿を見せてもらうと、思わず声が漏れる。
「わぁ……!」
「うん。これが一番似合ってるわね!」
クシナさんの頷きに私の口元も自然と緩む。
「とっても素敵です! 私もこの浴衣が一番好きです!」
「本当? ならよかった。リンちゃんがよければ、その浴衣貸してあげるわよ」
「いいんですか?」
「いいわよ。正直に言うとその浴衣、丈を直さないと私じゃ着られないのよね」
苦笑を交えながらそう言って、クシナさんはそれまで着付けていた浴衣を丁寧にたたみ始める。
私も手伝おうと腰を屈めようとして、これ以上いくと色々と危ない、と察知する。
「私がやるからじっとしていて。浴衣とか着慣れてないから何時もの感覚で動いたり屈んだりしようとすると難しいでしょ? それにリンちゃんはお客さんなのよ。お客さんに手伝わせるわけにはいかないわよ! あ、直す時はここを持って引っ張ってね」
私に浴衣が着崩れたときの直し方を教えつつ、クシナさんはてきぱきと浴衣を畳んでいく。あっという間に片付いてしまって呆気にとられていると、玄関の戸が開く音が聞こえる。
「ただいま」
「あら、おかえり。ミナト」
「ミナト先生、こんにちは。お邪魔してます」
玄関にいるミナト先生に居間から挨拶をする。
「ん! こんにちは。……ってあれ? リン?」
少々驚いた表情を浮かべながら、ミナト先生が居間までやってくる。
「ずいぶん早かったわね。明後日までの長期任務じゃなかったの?」
「それが思った以上に早く終わったんだよ」
「そうなんだ。じゃあ今夜は任務遂行祝いでごちそう作らなくちゃね!」
「ん! それは楽しみだ」
ミナト先生は自室に向かったかと思えば、ものの数分で着替えを済ませて戻ってくる。
そして私の顔を再び見て、何かを思い出したように手を打つ。
「そうだ。リンに伝えなくちゃいけないことがあったんだ」
「私にですか?」
ミナト先生が私に? 一体何だろうか。もしかして今度の任務日程が変わったとか? でも、確かミナト先生は一緒の任務ではなかったはずなんだけど……。それとも報告に行った際に誰かから伝言を頼まれたとか?
内心首を傾げながらミナト先生の次の言葉を待つ。けれどそれは私の予想とは全く違うものだった。
「里の外れに森があるのは知ってるよね?」
「……? はい」
里の外れの森……?
突然脈絡のない単語から始まり、私の頭は混乱する。里の人は滅多に行かない、薄暗い森が何故今話題に上がるのだろう?
「その森の入り口に、夜になったら来てほしいってオビトが言っていたよ」
「オビトが、ですか?」
「うん。詳しくはわからないんだけど、すごく素敵な場所を見つけたからリンに見せたいんだって。綺麗な浴衣も着ているからちょうどいいね」
似合っているよ、と付け加えて、ミナト先生はもう夕飯の準備をし始めているクシナさんの元へと向かう。
何がちょうどいいのか全くわからないけれど、ミナト先生はオビトから伝言を頼まれただけだと言っていたし、これ以上聞いても何も教えてもらえそうにはなさそうだった。
でもまさかオビトからの伝言とは思いもしなかった。
台所からは二人の賑やかな声が聞こえてくる。クシナさんが夕飯の支度をし始めたのなら、私はそろそろお暇した方がいいかもしれない。それにしても今から支度を始めるなんて相当すごい料理を作るのかな……?
二人の会話の邪魔をしないように、そろそろ帰りますね、と控えめに声に出せば、
「あ、はいはーい!」
と二人は揃って玄関まで付き添ってくれる。
親子でもなければ、単なる上司と部下、そして上司の奥さんという関係性なのに、今のこの状況はどこか心がむず痒くなる。
まるで本物の親子のような、そんな勘違いを起こしてしまいそうになるほど、二人の優しくて柔い雰囲気が私を包み込む。
かなり頑張ってサンダルを履いて、くるりと体勢を返してから、二人を真正面に見て頭を下げる。
「ミナト先生、クシナさん、お邪魔しました。浴衣は後で返しに来ます」
「いつでもいいからね。……って、あぁ、忘れてた!」
いきなり大声を出されて面くらう私をよそに、クシナさんは下駄箱の中をがさごそとかき分けて、赤い鼻緒がついた下駄を取り出して、これ! と差し出してくる。
え? ええ?
戸惑いながらもそれを受け取る。これ、どうしたらいいの……?
「せっかく浴衣着てるんだからサンダルじゃなくてこっちにしなってばね!」
「え……、っと」
「クシナ、いきなり下駄だけ渡されても困るんじゃないか?」
ミナト先生の尤もな意見に、クシナさんはそれもそうねという表情を浮かべ、
「リンちゃん、サンダルはこっちの袋に入れてその下駄に履き替えて」
と袋を差し出してくる。
「あ、はい……って、え!?」
袋を受け取って履き替えようと身を屈める前に、クシナさんが私の手から下駄を取り、甲斐甲斐しく履き替えさせてくれる。
一人でできますと慌てている間に履き替えが終わる。
「よし!」
満足そうな笑みを浮かべて、クシナさんは親指を立てて見せる。
「あ……ありがとうございます。やってもらってばかりですみません」
「さっきも言ったでしょ? 浴衣って動きにくいから慣れるまではおんぶにだっこでいいのよ! それよりもどう?」
クシナさんの言葉に視線を足下へ向ける。
カラン、コロンと下駄の歯が奏でる音が可愛い。赤い鼻緒と裾部分に描かれている朝顔のおかげで足下が一気に華やかになった。しかもそれだけでなくお互いが引き立たせあっていて、どちらも一層素敵に見える。
確かにサンダルではこの雅さみたいなものは出せないなぁ。
「とっても素敵です!」
「でしょー? うんうん、これでようやく完璧ね!」
「ん! やっぱり下駄にすると全然印象が違うね」
ミナト先生もクシナさんと一緒にうんうんと首を縦に振る。あまりじっと見られると恥ずかしい。
「クシナさん、色々とありがとうございます」
「どういたしまして。下駄で歩くのに慣れるまでは鼻緒でこすれて親指と人差し指の間が痛いかもしれないけど、しばらく歩いていれば慣れると思うから。それでも慣れなかったら鼻緒を広げちゃってもいいし、あとは当て布とかしてもいいしね。リンちゃんの好きにしちゃっていいわよ」
「え……? でも、いいんですか?」
「いいわよ。最近は下駄も履かなくなっちゃったしね。リンちゃんが代わりに履いてくれるならその下駄だって嬉しいわよ。それに浴衣だってそう。ずっと箪笥の奥にしまっておかれるよりかは着てもらった方がずっといいわ。汚れも傷も気にしないでいいから」
だから、楽しんでらっしゃい! と終えてクシナさんは満面の笑みを浮かべ、背中を押される。
お邪魔しましたと再び頭を下げて、サンダルが入った袋を手に扉を開ける。
途端にまぶしい日差しが入ってきて咄嗟に手で日よけにする。その際に袖部分に描かれた朝顔柄がふわりと揺れて自然と頬が緩む。
素敵だなぁ。
「気を付けてね」
「はい」
優しい言葉と共に送り出され、私の足は少しだけ軽くなった。

日中、クシナさんに言われた通り、足に下駄を慣れさせるためにそこら中を歩き回り、ようやく普通に歩けるまでになった。
制約の多い浴衣での歩き方も会得したし、これならオビトとの待ち合わせにも浴衣で行けるかもしれない、と自信も身についた。
カラン、コロンと下駄と地面が奏でる、陽気で風流な音に耳を澄ませながら、ミナト先生からの伝言通りオビトとの待ち合わせ場所へと向かう。
整備された道を抜けるとちょうど日も暮れ始めて、いよいよ普段履いているサンダルでも、歩くのに多少の困難を伴う領域に足を踏み入れる。
道はもちろんのこと、視界もどんどん暗くなっているから見え辛くなる。一歩、一歩足元を確認するように気を付けて歩いていく。
こんな時灯りがあればなぁ、と手からぶら下がるお荷物をじっと見つめる。
待ち合わせが夜だから灯りを持って行かないと、と思って家から適当なものを持ってきたというのに、どうにも調子が悪くて、点いたと思ったらすぐに消えてしまった。
何度か試してみたけれど、結局その後一度も点くことはなく。こんなことならちゃんと点くかどうか確認してから持ってくればよかった。ただ荷物が増えただけで後悔しか残らない。
そんなこんなで、待ち合わせ場所につく頃には今日一番の大きなため息を吐き出す。
灯りはともかくとしても、どうにか転ばずに済んだのはよかったかな……。
荷物と化した灯りを置いて空を見上げると、大きな月が昇っていた。
これなら灯りがなくても多少は大丈夫かな? と安心したのもつかの間。背後から物音がして、どきりと心臓が高鳴る。
こんな時間にこんな場所。待ち人か野生動物の類か。後者だった場合、今の格好では到底対処できない。
どうか前者でありますように――と願いながら、息を整えつつゆっくりと首を傾ける。
視界に入ってきたのは、驚いて目を丸くしているオビトだった。
「あ、オビト! 今日は遅刻しなかったね」
安堵と動揺、そして疲労を見せないようにぎこちない笑顔を作ってひらひらと手を振る。幸いなことにオビトの視線は私が着ている浴衣の方に注視しているようで気付かれることはなかった。
「リン、その浴衣……」
ようやく出てきた言葉は捻りだされたような小さな声。
そんなに私が浴衣を着ているのが意外だったのかな……?
「これ? クシナさんが貸してくれたんだ。……変かな?」
「全然! 似合ってる!」
食い気味に言われ、その勢いに驚く。けれどすぐに笑みを作って、
「本当? ありがとう」
と返せば、オビトの表情が明るくなる。けれど、どこか苦しそうにも見えるのは気のせいかな……?
どこか具合が悪いのか訊いてみた方がいいかと考えているうちに、
「それじゃ、行くぞ」
と、オビトの足は森の中へと向けられる。
可能性として考えなくはなかったけれど……、目的地は森の中かぁ。
森は待ち合わせ場所で、そこから違うところへ向かってくれたらいいな、と思っていただけにこのオビトの進路は少し困ってしまう。
持ってきた灯りは壊れていて使えない。
森の中でなければ、今日は満月に近いから月光も強く、それを頼りに歩けばいいかなと考えていた。
それなのにまさか月明りが届かない森の中に入っていくなんて……。
もっと事前に目的地について聞いていればよかった……。
森の中に入るなら、灯りはもとよりそれなりの格好をしなければ、とてもじゃないけれど歩くのですら不便さを伴う。
今から急いで戻って着替えるとして、少なく見積もっても一時間はかかる。
オビトがこの森の奥で何を見せてくれるのかはわからないけれど、その時間の間にもし見られなくなるものだとしたら、それは誘ってくれたオビトに申し訳ない。
それなら――。
灯りがないのはもう仕方がないと諦めて、浴衣の方は慎重に歩いて行けばそこまで着崩れはしないと思うし、少しくらいならクシナさんに直し方を教えてもらったから、綺麗にとまではいかなくても見栄えを整えるくらいはできる、はず。
浴衣の生地もそこまで薄いものではないから木の枝とかに気を付けていれば、引っかけて破いてしまうこともたぶんない。
クシナさんには汚しても傷つけても構わないと言われたけれど、きっとこの浴衣も下駄もクシナさんにとってお気に入り以上の思い入れがあるんじゃないかと思う。
お気に入りなのよ、と話してくれたクシナさんは遠い思い出を懐かしむような、愛おしむようなそんな表情をしていた。それくらい大事な品を借りたのだ。
汚さないように、そしてなるべく着崩れないようにする、と気を引き締めて、オビトについてゆっくりと闇が支配する森の中へと入っていく。
月明りが届かない暗い、暗い森の中。足元が殆ど見えない状態に加えて、木の根が飛び出ていたり、土が盛り上がっていたりという足場の悪さ。さすが里の人が寄り付かないと有名な森、というわけで。
人の手が入っていない森特有の歩きにくさは何度も経験しているけれど、ここはその中でも五本の指に入りそうだなぁ。
自然と眉を顰めてしまう。
あたりが暗いから私のこの表情がオビトに知られることはないというのは不幸中の幸いなのかもしれない。こんな顰め面はこの浴衣には相応しくないもんね。
そういえば、今の今まで尋ねるのを忘れてしまっていたけれど、これから何を見せてくれるのだろう。人が寄り付かない森で夜になってから見るものに全く想像がつかない。
「ねえ、オビト」
「ん?」
足元に気を付けながら声をかける。
オビトは首だけこちらにやって応答してくれる。転ばないかと、とても不安だけれど、オビトだってそこは弁えているだろうし、このまま話を続けてしまっても大丈夫かな?
「ミナト先生から夜になったらこの森に集合するように、としか言われなかったんだけど、この森に何があるの?」
「え? あぁ、それは……うぉ!?」
私との会話に夢中になっていた為か、オビトの足が倒れていた木の幹に取られて転びそうになる。
そこから懸命に踏ん張ってなんとか転ばずに済んだはいいものの、ばっちりオビトと目が合ってしまう。
見なかった振りをしようかとも思ったけれど、悩んだ末に結局声をかける。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫……」
オビトからは弱々しい返事が戻ってくる。
気まずさからか、それとも恥ずかしさからか、オビトはそれ以降口を開こうとはせず、私もかけるべき言葉を見つけられない。そうなると必然的に二人の間には沈黙が居座ることになる。
私が不用意に声をかけてしまったばかりに……。今回は転ばずに済んだけれど、もしかしたら転んでケガをしていたかもしれない。ケガで済めばいいけれど、もし当たり所やケガの度合いが酷かったら……?
ぞわりと背筋に冷たいものが走る。ここは森の中。しかも悪路中の悪路。今度はちゃんと立ち止まって話しかけよう。
なんとなくオビトの姿を見られなくて行き場を失った視線を足元へと落とす。
それから会話のないまま歩き、数分が経った頃。
「……ここ、か?」
オビトの口が、自分自身に確認するかのような言葉をこぼす。
つられるように顔を上げて、私の目は大きく見開く。そしてちゃんとそれを見るためにオビトの隣に並ぶ。
森の入り口から七、八分ほど歩き、たどり着いた先は木々に囲まれた少し開けた場所。そこには小さな池があった。そして暗い闇に映える数多の光。ふわふわとどこを見ても淡い光が漂っている。実物を見るのはこれが初めてだけど、もしかしてこれ――。
「綺麗だ……」
「綺麗だね」
――蛍だ。
そこは小さな虫が作り出す幻想的な光景が広がっていた。
私の口からは綺麗、というありきたりな言葉しか出てこない。けれどこれ以上この場を表現する言葉を見つけられない。
「里の外れにこんな素敵なところがあったんだね」
「ああ、うん……すごいな。こんなに綺麗だとは思わなかった」
「……? オビト、知っててここに連れてきてくれたんじゃなかったの? ミナト先生からはオビトが素敵な場所を見つけたって聞いてたんだけど……」
「え!? あ……そ、そうそう! こ、この間偶然この上を通りかかった時に見つけてさ!」
オビトの言葉に疑問を覚えて、つい言葉に出してしまった。私の指摘にオビトは慌てて訂正する。
さっきのここか? といい、ここに来るまでの様子といい、もしかして……?
色々な可能性を考えようとして、やめる。
ここで真実を見つけて追及してもきっとそれに意味なんてない。肝心なのはオビトの気持ちなのだから。オビトが私を連れてきてくれたから、今私はこんなにも素敵で綺麗な光景を見ることができている。なら、それでいい。その事実だけでいい。言葉を飲み込んで、
「そっか」
とだけこぼす。
オビトも私も、言葉を忘れて、時間を忘れて、蛍が作り出す、吹けば消えてしまいそうな淡く優しい光に目を細めた。

「そろそろ帰ろうか」
「そうだな」
私の提案にオビトはすんなり首を縦に振る。
「この場所のことはあんまり他の人には言わない方がいいかもね」
「どうしてだ?」
今度はオビトが不思議そうに首を傾げる。理由がわからない、と瞳の奥が訴えている。
「えっと、オビトは静かに暮らしていたところに突然次々と巨人が現れたらどう思う?」
「……? そりゃ、いやだろ。たとえ何もしなくてもそんな存在がいるってだけで毎日不安になるんじゃないか?」
「そうだよね。きっと蛍たちも似たようなこと思うんじゃないかな?」
「ああ、そういうことか」
オビトは手を打ち鳴らして納得してくれる。もしかしたら同意してもらえないかもしれないと思っていたけれど杞憂に終わってよかった。
最後にこの光景をこれでもかと目に、そして心に焼き付ける。
「それじゃ戻ろうか」
と声をかけると、それにオビトも応じて、一緒のタイミングで私たちは踵を返す。
「……?」
池から少し歩いたところで、背後から微かに話し声のようなものが聞こえた。
もしかして私たち以外にも誰かいたのだろうかとゆっくり振り返る。けれどそこには誰の姿もなかった。
気のせいだったかな……? それにしては聞き覚えのある声だったような……。
内心首を傾げつつ、そっと横目で窺えば、オビトも足を止めて私と同じ方へ視線を向けている。
もしかしてオビトも何かの気配に気付いたのかな? それじゃあさっきの話し声はやっぱり誰かいたってこと……?
「オビト」
「ん?」
呼ばれたことに全く心当たりがないように首を傾げるオビトを見て、言葉が出てこない。この表情から察するにオビトは気付いていなかった? じゃあやっぱり私の思い過ごしだった……?
「あ、えっと……ここ、二人の秘密の場所にしようね」
「……おう」
結局言葉が見つからないまま、私の呼びかけに応じたオビトに何か言わなくちゃ、と必死に頭の中を探し回ってこぼした言葉に、オビトは蚊の鳴くような声で返してくる。
目があっちこっちに泳いで、思わず笑ってしまいそうになるのを必死に口を引き結んで耐える。
そして何拍かおいてオビトの視線は下を向くことでようやく落ち着く。
何か考え事をしているのか、小さな声でぼそぼそと言っている気配はあるものの、小さすぎてその内容までは聞き取れない。
なんだか声をかけづらい雰囲気になってしまって、どうしようかと考えあぐねていると、オビトから突然手を差し出される。
「足元、その……大丈夫か?」
一瞬、何を言われたのかわからなくて目を見開いてしまう。けれどよくよく見てみれば、オビトの視線は私の足下――つまり下駄に向いていた。
……てっきり気付いていないと思っていたのに。
差し出された手とオビトの顔を交互に見る。少々不器用だけれど、オビトなりに精一杯気を遣ってくれているというのが伝わってきて頬が緩む。
「ありがとう」
差し出された手のひらにそっと自分のものを重ねると、優しく、でも離さないような微妙な力加減で握られる。それに応えるように私も少しだけ力を込めて握り返す。
おいてなんていかないからな。
そう、言われたような気がした。
手を繋いでいるからか、それとも単にこの悪路を歩くのに慣れたからなのか、帰りは行き程時間もかからずに森から出ることができた。
完全に出きって、安堵のため息を漏らしてから、オビトが来た道の方へ振り返る。それにつられて私も振り返る。
そこにあったのはまさしく暗闇。灯りがなければ、いや灯りがあっても入っていこうとは思えないほどの真っ暗闇。
けれど、この奥にはあの幻想的な景色を作り出す蛍が住処としている池がある。人は見た目によらないというけれど、森も見た目によらないなぁ。
オビトにお礼を言おうと視線を戻すと、ちょうどむこうもこちらに向き直ったところで、しっかりと目が合う。
「オビト、今日はありがとう。私、クシナさんに浴衣を返さなくちゃいけないからここで別れるね。また明日ね」
目が合って変に緊張してしまったのか、自分でも驚くくらいの早口で喋ってしまい、ちゃんと聞き取ってもらえただろうかと心配になる。けれど、オビトはにっかりと笑みを浮かべ返事をくれる。
「おう! また明日な!」
するりと簡単に解かれた手。
温もりが一気になくなってしまって、ほんの少し寂しさを感じながら私はくるりと踵を返した。


季節は冬も中頃。
吐く息が白く視界を霞ませて、ゆっくりと消えていく。悴む指先を擦り合わせると買い物袋がガサリ、ガサリと音を立てる。
今日は二週に一度の特売があったからついあれもこれもと買い込んでしまったけれど、思い返してみれば家にまだたくさんあったものまで買った気がする。特売だからとちょっと調子に乗って買いすぎたという感じは否めない。
大きく息を吐き出して暮れ始めた空を見上げる。橙色と空色が混じり合う、不思議な色合い。今時期の空模様は空気が澄んでいるからか、ほかのどの季節よりも綺麗に見える気がする。
「空に何かあるの?」
突然背中に声をかけられて、驚きのあまり口から変な声が飛び出す。
慌てて振り返ると、そこには不思議なものを見るかのような表情を浮かべるリンの姿があった。
「リ、リン……!?」
「こんにちは、オビト」
「こ、んにちは……ってえ? なんでリンがこんなところに……?」
軽いパニックになりながらも、今の状況を理解しようと必死に頭を回転させる。
「オビトを探してたんだよ」
「……え!?」
夕暮れ空を背景に、リンは静かに笑う。
その情景があまりにも綺麗で、どきりと心臓がひときわ大きく鼓動する。
「オレを探してた?」
「うん」
リンの視線はまっすぐオレを捉えている。その瞳は嘘を言っているようには見えない。ならば何かの口実というわけでもなさそうだ。
けれどリンがオレを探す理由に心当たりがない。
いや、待てよ……。もしかして今日は非番だと思っていたけれど、実は任務が入っていたとか? 最近任務続きで日付の感覚が薄れていたからあり得ない話じゃない。今日って何日の何曜日だっけ?
でもそうなるとオレを呼びに来たというリンの格好が軽装すぎる――というよりかは武装を一切していない。これから任務に行く割にはあまりにも服装がおかしい。
もしかしたらリンはただ探してくれと頼まれただけという可能性もなくはないけれど、それなら最初にそう言うはず。
なら、任務の呼び出しではなく別件……?  あと思いつくことといえば、告白……とか?
そんなまさかとは思いつつ、リンの表情をよく見ると頬が紅く染まっている。視線もどこを見たらいいかわからないといった風だし、まるでその様子は本当に告白をするみたいだ。これはもしかしたら、なんて否が応にも期待せざるを得ない
ど、どうしよう……! もし告白された場合、どう返したら気取らずに見えるんだ?
普段からカカシみたいな冷静な顔をしていればこういう時もニヤけずに話を聞けるっていうのに、今のオレは期待に胸が膨らみすぎて下唇を噛んで手のひらに爪が食い込むくらい握りしめて、なんとかいつもの顔を作り出している状態だ。とてもじゃないけれど冷静という言葉とは程遠い。
「ねぇ、オビト」
「お、おう?」
「私ね――」
リンの笑みがブツリと切れる。まるでいきなりテレビの電源が落ちたかのように視界が真っ暗になる。
え、なんで、どうして……。これからだって時に。

「…………」
次に瞼を開いた時、オレの両目が映し出したものは自分の部屋の天井だった。
「夢かよ……」
腕で視界を覆って、吐き出した言葉はもちろん誰に拾われるわけもなく、虚しく部屋の中に溶けていく。
鳥の囀る声がどこか遠くの方で聞こえるのを感じながら時計に目をやると、時刻は六時を少し回ったところだった。
まだ日も昇ったばかりだからか、部屋の空気は鼻がツンとするほど冷たく澄んでいる。そればかりか吐く息も少しだけ白みを帯びていて、視界からも寒さを感じさせる。
夢でのこともあるし、と時計から視線をずらして今度はカレンダーに目をやる。じっと紙面を見て、今日が非番であることを再確認する。
よし、大丈夫だ。今日は非番だ。
せっかくだからもう少し寝ていてもよかったけれど、もう目は完全に開いてしまった。
今日に限って頭もすっきりとしているから、これから二度寝をしようにもなかなか寝付けそうにない。
それならいっそのこと起きてしまおうか。
一つ息を吐き出して、勢いをつけて起き上がる。
「よ……っと!」
冷たい空気が全身を襲い、一気に冷える。今まで温かい布団の中にいたものだから余計寒さが見に沁みる。
手早く布団を畳んで、寝巻きから外着へと着替える。冷たくなっている衣服に袖を通すのは毎度億劫で仕方がない。早く暖かい季節にならないものかと毎年冬になるたびに思う。
大きくため息を吐き出して、先ほどまで見ていた夢を思い出す。
確かにあまりにも出来すぎた展開だとは思っていた。思っていたけれど……まさか夢とは。
というか夢の中でも現実と同じようなことを考え、思い、そして行動していて、結局夢の中ですらオレは格好つけられないのか、と思い知る羽目になった。
「…………」
朝からどんよりしていても仕方がない。気分転換もかねて散歩でもするか。
音を立てないように玄関まで行き、ドアを開ける。
うわ……。わかってはいたけれど、外の方が寒い! 
静かにドアを閉めて、しっかりと施錠する。
もっと薄暗いかと思ったけれど、外は案外明るくて視界ははっきりとしている。吐き出した息が白く霞み、消えていくさまを眺めながら、行く当てもなく歩き出す。
当然のことながらこんな時間じゃどこも開いていない。静けさが支配する店の前をゆっくり通り過ぎていく。
さすがに目的もなく歩くのは退屈だし、公園にでも行くか、それとも……。
「オビト?」
不意に背中にかけられた声。驚いて変な声が飛び出す。
錆びついた絡繰のようにゆっくり、ぎこちなく振り返ると、視線の先にはリンがいた。
「おはよう。早起きだね」
「お、おはよう……。そう言うリンも早起きだな」
「うん。なんだか目が覚めちゃってね。だから散歩してたんだ」
動揺を悟られないように必死に冷静さを装って笑みを作る。
「そっ……か」
今置かれている状況がまるでさっき見た夢の再現ようで、言葉が上手く出てこない。
「オビトはこんな時間にどうしたの?」
「オレもリンと似たような感じだ」
「そっか」
それ以降の言葉を見つけられずに会話が途切れてしまう。
無理矢理にでも何か話題を見つけるべきか、それともこのまま立ち去るべきか。寝起きだからか、全然頭が回らない。
おたおたと決めかねているうちに時間だけがどんどんと過ぎていく。もうこれ以上沈黙を貫くのは物理的にも精神的にも辛くなってきた。何か話題はないかとあちらこちらへ視線を飛ばす。
「ねぇ、オビト。今夜星を見に行かない?」
「へ?」
突然リンからの想像もしないような提案に思考が一度停止する。
リンは今星を見に行こうと言ったのか? こんな寒いのにどうして……?
「都合が悪かった?」
リンが首を傾げて問いかけてくる。次の瞬間には口が自然と動き出す。
「いや! 大丈夫!」
先ほどまでの沈黙が嘘のようにオレの口は流暢に動く。せっかくリンの方から誘ってくれたのだから、ここは行く以外の選択肢などない。寒さがどうした。寒いなら着こめばいい話だ。何を悩んでいたんだ。
「本当? じゃあ日が暮れたら秘密の場所の入り口に集合ね!」
「おう!」
リンの言葉に笑顔で返して、じゃあまた後でと別れてくるりと踵を返す。
早起きは三文の得なんて言葉があるけれど、まさしくその通りだ。珍しく散歩をした甲斐があった。夢みたいな話だ。まさかリンと星を見に行くことができるなんて!
……いや、待て。もしかしたらこれはまだ夢の続きなのかもしれない。
おそるおそる頰を摘む。ジンジンと摘んだ部分が痛む。大丈夫、夢じゃない。夢じゃ、ない!
柄にもなくスキップをしながら、ようやく昇り切った太陽に向けて早く暮れるよう願った。

「ごめん! 遅れた!!」
「大丈夫だよ」
すでに待ち合わせ場所にはリンが到着していて、遅れてきたオレを何時もの優しい笑みで迎えてくれる。
リンは外套を着込んでいるけれど、それでカバーできない部分――指の先や顔は寒さで微かに赤くなっていた。そんなになるまでここで待たせてしまったことに罪悪感がのしかかる。
本来ならオレがリンを待っているはずだった。
今日ばかりは特に遅刻できない、と一時間も早く家を出たのに、数歩行ったところでオレの目の前を大きな荷物を抱えたばあちゃんが通りかかって――見てしまった以上、放っておけるわけがなかった。
いつものように声をかけてから荷物を持ち、一緒に目的地まで向かった。
相手が高齢者だと急かすこともできず、かといってばあちゃんごと抱えていこうにもオレにそこまでの腕力はないから結局隣を歩くしかない。
それに加えて随分と話し好きな人で、あれやこれやと話しながら歩くものだから途中で止まるわ、何度も同じ話をしてくるわで、結局必死に走ったものの、大幅な遅刻をしてしまった。
リンとの約束も勿論大事だ。けれど、困っているお年寄りを見て見ぬふりもできるはずがない。
どっちかを選ぶなんてこと、オレにはできない。
「また人助けしてたの?」
「え、あ、うん……そうだけど」
リンの、まるで心の中を読んだかのような言葉に汗を拭う手が止まり、目を見開く。
「お疲れ様」
笑みと共に届けられた言葉。その一言がとても嬉しくて、にやけそうになるのを必死に抑える。
それじゃ、行こっか! とリンはくるりと体の向きを変える。けれどオレはその動きについていけない。
「オビト? どうかした?」
オレがいつまでも突っ立ったままなのを不思議に思ったのか、リンは首だけをこちらにやり、不思議そうな表情を浮かべる。早く行こう、とその目が優しく言葉をかける。
「あ、いや。なんでもない」
小さく首を振って縫い付けていた足を動かした。

うっかりしていて、灯りを先ほど荷物を送り届けたばあちゃんの家に忘れてきてしまった。取りに戻ろうかとも思ったけれど、今夜は月明りがこれでもかと視界を照らしてくれている。
これなら余裕で歩けそうだという話になり、今回は灯りを持っているリンについていく形で森の脇を歩いて行くことになった。
ここらへんは里内でもあまり人が寄り付かないからか雑草が生え放題になっていて、少し気を抜くとすぐに足を取られそうになる。気を付けながら、がさがさとかき分けて進んでいく。
ふと視線を上げると、リンが左手に何かを持っているのが見える。
そこそこ大きな籠。そこから覗く円筒と風呂敷に包まれた何か。なんだろうか、と思いを巡らせているうちに前を歩くリンの足が止まり、あたりをきょろきょろと見渡している。オレも足を止めてリンの動向を窺う。
「ここにしようか」
そう言われたここは小さな広場――というよりかはただ単に少し開けた場所。周りに木々や遮蔽物のない、今夜の目的を果たすにはこれ以上ない、いいところだった。
「ちょっと待ってね」
そう言ってリンは持っていた籠から円筒を引き抜いてバサリという音とともに広げる。一畳分ほどのそれを地面にふわりと落とし、その上に履物を脱いであがる。
あれ、何かと思ったら敷物だったのか。ずっと何だろうと思ってはいたけれど、ようやくその正体が判明した。
「どうぞ」
リンの勧めでオレもそこへ上がりこむ。下にある草が緩衝材の役割を果たしていて、これなら長時間座っていても疲れずに済みそうだ。
オレが座り心地を確かめている間に、リンは籠の中からあれやこれやと取り出して広げていき、あっという間に小さな宴の場が出来上がる。
風呂敷から現れた弁当箱の中には、おにぎりと卵焼きと漬物、あっちの容器にはお茶だろうか。宴というよりかは野掛けと言った方が適当かもしれない。
「オビト、夕飯まだだよね? あんまり夕飯っぽくはないけれど、よかったら食べてね」
「ありがとう」
「あ、おにぎりは梅干しと鮭とおかかだよ。お茶は冷めちゃうから飲みたい分だけ入れてね」
「あ、うん……」
この夢のような状況は何だろうな、と思う。
リンと二人きりで星を見に来ているというのも相当オレの中では珍しい部類の出来事というか、今までの経験からこういう時は必ずカカシが物理的にも精神的にも間に入るものなのに、今日に限ってあのバカカシは姿もなければ話の端にも出てこない。つまりは本当の意味でオレとリンは今この場に二人きりというわけで。
リンが何を思ってオレを誘ったのかはわからない。けれどもしかしてこれは、なんてことを考えてもいいのだろうか。……いや、やめておこう。期待してその通りにならなかったときの悲しさは何度も経験している。現に今朝だって空しい思いをしたばかりだ。
「わぁ!」
リンの驚きと歓喜の入り混じった声に下げていた視線を上げれば、そこには満点の星空という形容が相応しい光景が広がっていた。
「おぉ……!」
大小入り混じった光が真っ黒な空によく映える。空気が澄んでいるからか、今日はいつにも増して綺麗に見える気がする。
隣ですごいね、綺麗だねと声を上げるリンを見て、煩悩にも似た想いを抱いていた自分自身を少しだけ恥ずかしく思う。
リンは純粋に星を眺めているというのに、オレときたらリンと二人きりで星を見ることに違う意味を求めようとしてしまっていた。
まあ、それもやむを得ないというか、好きな女の子から二人きりで星を見ようなんて誘われたら嫌が応にも期待してしまう。
だから余計に恥ずかしい。リンは、ただ言葉の通りに星を見にきただけで、それにたまたま付きあわせてもらっているだけなのだ。
もし今朝あの場にオレではなくカカシがいたとしたら、きっとリンはカカシのことを誘ったのかもしれない。カカシがこんな風に星を見にくるとは到底思えないけれど。――ってなんでバカカシのことを考えなくちゃいけないんだ!
「あ、オビト! 見てみて! 始まったよ!」
そんなオレの鬱々しい気持ちを払うように、やや興奮気味のリンの声が飛んでくる。目を凝らして見てみれば流れ星が一筋、二筋とどんどんその数を増やしていく。
あっという間に流れ星の大群が視界いっぱいに広がる。
「うわ……なんだこれ」
思わず漏れ出た言葉にリンが回答をくれる。
「流星群だよ。ちょうど今日だったんだ」
「そうなのか! すげー!」
次々と流れていく星がまるで光の雨みたいで、今さっきまで落ち込んでいたのが嘘のようにオレの気分は振り切れる。
夏に見た蛍も綺麗だったけれど、今眼前に広がるこの流星群もとても綺麗だ。
「……オビトにね、見せたかったんだ」
「え?」
リンがぼそりとこぼし、オレはそれに首を傾げる。
オレに見せたかった? どうして……?
「夏に蛍を見せてくれたお返し」
それは、オレがカカシの代わりにここにいるわけではなく、ちゃんとオレとして招かれた事の証明だった。
嬉しすぎて胸が詰まる。
にやけそうになる口元を必死に引き結んで、頑張って表情を作るけれど、大丈夫だろうか? 今、オレ変な顔してない?
「…………」
「…………」
妙にできてしまった間を埋めるように、リンは照れくさそうに笑って視線を落とす。
ゆっくり伸ばされたその両手はおにぎりを取り、そのうち一つをオレの方へ差し出してくる。
「どうぞ」
「ありがとう」
「梅干しのおにぎりは――」
リンの言葉を全部聞き終わる前に渡されたおにぎりにかぶりつく。ほんのり効いた塩味。そして――
「――っ!」
欲張って大きく一口でいったのと中身が梅干しだったこと。そしてそれがとてつもない酸っぱさであったこと。その三つが合わさり、一瞬で涙目になる。
慌ててお茶で流し込んだけれど、まだ口の中は痺れていて思わず眉をしかめる。
「大丈夫……?」
リンの心配の声に、やせ我慢で大丈夫と言ってはみたものの、全然大丈夫ではなかったし、なんならお茶を全部飲み干しても足りないくらいだった。
「ごめんね、梅干し酸っぱかったよね?」
言いながらリンはお茶のおかわりを入れてくれる。微かに立った湯気ごと一気に呷る。
「いやあれくらいの方が保存に適してると思うし、オレは全然食べられたから大丈夫!」
あんな醜態を見せた後で何をどうして大丈夫なのか自分でもわからないけれど、ここで虚勢を張らずしてどこで張る、と心のどこかで誰かが叫ぶのを聞いた気がした。
当然リンにはバレバレで、嘘ばっかりなんて困ったような笑みを浮かべながら言われてしまう。
それが何故だか妙に嬉しくて、自然と口角が上がる。
まだ手の中には食べかけのおにぎりがあるけれど、とにかく口の中が痺れているから別のものを食べて口の中をリセットしたい。
どうしようかと迷って卵焼きを手に取る。
ちょっと力を入れれば簡単に形を崩してしまいそうなほど柔らかいそれを口に入れた瞬間、優しい甘みが口いっぱいに広がって、 梅干しによる強烈な刺激を少しずつ和らげていく。
あー……。めちゃくちゃ美味しい。オレ、この卵焼き好きだ……。
何個か食べて口の中の感覚を取り戻してから、今度は気を付けて梅干しのおにぎりを食べていく。こうして少しずつ食べればさっきみたいな強烈な酸っぱさもなくて、むしろとても美味しく感じられた。
合間に漬物をはさみながら、オレの手は止まることを知らず、最後のおにぎりを食べきるのと同時に流星群が終わりを告げる。もの悲しさを感じてしまうのは弁当に対してか、それとも流星群に対してか。
「流星群も終わったし、雲も出て来たからそろそろ帰ろうか」
「そうだな」
リンの提案に小さく頷く。
「……それにしてもよく全部食べたね」
絶対余ると思ったのに、と続けてリンは空っぽになった弁当箱をまじまじと見つめている。それに曖昧に笑って返す。
正直言ってかなり無理をして食べた。
リンもまさか全部食べるとは思っていなかったみたいだし、無理をせずに残せばよかったのかもしれない。けれどせっかくリンが作って来てくれたものを残すのは嫌だった。
それに梅干しのおにぎりもゆっくり食べれば最初程の酸っぱさはなかったし、卵焼きを含めてどれもこれも美味しくてつい手が止まらなかったというのも大きい。
だからここは何の脚色もつけずこう答えるほかない。
「リンの作ったものが美味しかったからな!」
「ありがとう。そう言ってもらえると作った甲斐があったよ」
決め台詞にも相当する言葉だったのだけれど、さらりと流されてしまう。
社交辞令か、それとも気を遣われたと思われたのか。今の結構本気だったんだけどな……。
リンに悟られないように小さく首を振る。
今日は二人きりで流星群鑑賞ができたのだから、それでいいか。これ以上求めて罰が当たっても嫌だし。
敷物の上を綺麗に片付けて二人して、せーの! と立ち上がる。
リンが籠と灯りを持ち、オレがバサリと敷物をはためかせる。いつのまにか上がり込んでいた小石が愉快に踊って落ちていった。
二つに折ってからくるくると丸めて、それを籠の中に収めてからリンの手から籠と灯りを引き取る。あまりにもそれが自然にできてしまったものだからリンはもちろんのこと、オレ自身も驚く。
「え、あ、ありがとう……?」
「お、おう?」
今のは完全に無意識でやっていた分、できてしまった驚きで頭が真っ白になってしまった。真っ白になりすぎてリンの感謝の言葉にも疑問の混じる返答をしてしまったくらいだ。
「じゃ、じゃあ行くぞ……?」
「うん」
未だに困惑しているオレとは違ってリンの返事ははっきりとしたものだった。
とにかくぼーっと立っていても仕方がないから歩き始める。
灯りがあるとはいえ、雲によって闇に飲み込まれてしまった帰り道を歩くのは神経を使う。夏に蛍を見に行った時ほどではないにしても、いつ何が起きるのかわからない上に視界が確保されているのは精々灯りが照らし出す範囲のみ。
行きは月明かりがあったからまだ平気だったけれど、今は雲のせいでそれも期待できない。
後ろのリンのことも考えて、ゆっくり、足元を確認しながら一歩一歩、踏みしめていく。
パキポキと小枝が折れる音。がさがさと落ち葉が擦れる音。森からは梟の鳴き声。静かな夜に響くそれらは心地がいいけれど、少し不気味さもあった。
「オビト」
「なんだ?」
立ち止まって振り返る。
灯りによってぼんやりと映し出されるリンの顔は笑みに溢れていた。
「また見に来ようね」
「そうだな!」
また二人で! と言おうとしてリンの言葉に遮られる。
「今度はみんなも誘って」
「……そうだな」
喉まで出かかっていた言葉を飲み込んで、視線を逸らす。
本当に、心の奥底からの言葉なのだというのはリンの顔を見ればわかる。
てっきりまた二人で、と思っていただけにみんなという単語に少しがっかりしてしまう。その中にはきっとカカシやミナト先生が入るのだろう。ミナト先生はいいけど、カカシかぁ……。
リンのことだからこんな素敵な光景をカカシやミナト先生にも見せたいと思ったのだろう。それ自体は何も悪くはないけれど、でも……!
「どうかした?」
「なんでもない」
曖昧に頷いて視線を落とす。そこにすっと入ってきたのはリンの右手の小指。一瞬意味を捉えきれずに思考が止まる。
「忘れないでね」
暗がりから聞こえる優しい声。その言葉と差し出された小指で把握する。
「忘れるもんか」
右手の小指を出してリンのそれと絡ませて、せーのと小さな始まりの合図。

「指切りげんまん――」
***
特に夢見が悪かったわけじゃない。自然と、まるでそうなることがあらかじめ決められていたかのように私の瞼は開かれた。
ぼうっと映る自室の天井をしばらく眺めて、それから時計に目をやる。針は六時少し前を指している。
任務の日以外でこんなに早く起きるのも珍しいなぁ、なんて思いながら布団からゆっくりと起き出す。
二度寝をしてもいい時間だけれども、目は完全に覚めてしまった。疲れがあるという自覚はないけれど、寝ようと思えば寝られてしまう危うさはある。
それに室温が思ったよりも低くて、布団に戻ろうものならそれこそ心地よすぎて次、何時に目が覚めるかわからない。
せっかく早起きをしたのだから、いつもはやらないこと――例えば早朝散歩をしてみるのも楽しいかもしれない。早起きは三文の得という言葉があるくらいだし、何かいいことがあるかもしれない。
早速外着に着替えて物音を立てないようにそっと家を出る。
一歩外に出ると冬特有の体の芯まで届くような冷たい空気が全身を襲う。部屋の中でも結構寒いと思っていたけれど、外はそれに輪をかけて寒い。
大きく吐き出した息は白く霞んでぼんやりと視界を曇らせる。
「あら、リンちゃんおはよう」
「お、おはようございます」
いきなり声をかけられて、驚きつつもそちらへ顔を向ける。
隣の家のおばさんがちょうど同じタイミングで家を出てきたらしく、右手をノブにかけたまま笑みを作っていた。
「今日も任務なの?」
「あ、いえ。ちょっと早く起きちゃったので早朝散歩でもしようかと思って」
「そうなのね。健康的でいいわね! ……あぁ、そういえば今日よね」
「何がですか?」
おばさんは手を打ち鳴らして楽しそうに話しているけれど、私はその話に全くついていけずに首を傾げるしかない。何か楽しみなことでもあるのかな?
「流星群よ、流星群。今夜見られるらしいわよ! なんでも今日は特に空気が澄んでるからよく見えるって天気予報の人が言ってたのよぉ!」
「そうなんですか?」
「知らなかったの?」
「最近任務続きであんまりニュースとか見てなかったので……」
私がトーンを落として喋れば、おばさんはそれは大変ねと少しだけ眉を顰めてから、それじゃあねと背を向けて歩いていく。
その後ろ姿を見届けてから私も当てのない散歩へと繰り出す。
歩き始めてみれば意外と体も温まってきて、そこまで寒さも気にならなくなった。むしろ少し重装備にしすぎたかもしれないと後悔するほど。
けれど脱いだら脱いだで寒くなるだろうし、荷物になる。それならこのままでもいいかな、と大きく息を吐き出す。
「……流星群かぁ」
ぼそりと呟いた言葉は静かで冷たい空気にそっと溶けていく。
空気が澄んでいるのも綺麗に見えるのもわかる。けれど、どう考えてもこの季節に流星群鑑賞は寒い。
家の中から見られるのであれば最高なのだろうけれど、たぶん間取り的にそれは難しいだろうし……。
考えれば考えるほど遠い夢のように感じられて少しだけ空しくなってしまう。
ぼんやりとそんなことを考えながらまだ開店していない商店の前を歩いていると、見覚えのある後ろ姿を見つける。一瞬目の錯覚かと思って目を擦ってみたけれど、その後ろ姿は錯覚でも幻でもなんでもなくて。まさかこんな早い時間から外を歩いているなんて意外も意外だった。
声をかけようかやめようか少しの間迷って、私は前者を選択する。
「オビト?」
後ろから突然声をかけたからか、オビトの口からは変な声が飛び出す。その後、ゆっくりぎこちなくこちらへ振り返る。
まるで油のさしていない機械のような動きに、不覚にも笑いそうになってしまったのは内緒にしておこう。
「おはよう。早起きだね」
「お、おはよう……。そう言うリンも早起きだな」
普通に挨拶を交わしたはずなのに、どうにもオビトは私の姿を見て動揺している。しかもそれを私に悟られまいと必死に隠そうとしている。
指摘しようかどうしようかと悩んだ末、そこには触れずに流すことにした。
「うん。なんだか目が覚めちゃってね。だから散歩してたんだ」
「そっ……か」
言葉に一瞬引っ掛かりを感じる。小さな、小さな引っ掛かり。けれど気にせず話を進める。
「オビトはこんな時間にどうしたの?」
「オレもリンと似たような感じだ」
「そっか」
オビトからの言葉でぱったりと会話が途切れてしまう。
続けて何か言うべきなのか、それともこのままじゃあねと別れるべきなのか。
普段ならともかく、今は目覚めてから三十分も経っていないからか上手く頭が働かない。どうしようかと悩むばかりでいっこうに口が開かない。
別れるには随分とタイミングを見失ってしまった――と思った時だった。
私の頭は不意にある言葉を思い出す。
≪流星群よ、流星群。今夜見られるらしいわよ! なんでも今日は特に空気が澄んでるからよく見えるって天気予報の人が言ってたのよぉ!≫
流星群。
さっきは寒い中見るのは嫌だなと思っていたけれど、最初から寒いとわかっているのなら予めそれ相応の準備をしていけばいい話だし、よく考えれば流星群は自然現象で、今日を逃せば次は来年まで待たなくてはならない。今日しか見られないという圧倒的な特別感は大きい。
オビトには夏に蛍を見に連れて行ってもらったし、今度は私がオビトに流星群を見せて驚かせたい。楽しんでもらいたい。
そしてあの時のお返しをしたい。
気持ちが固まった瞬間、私の口は動いていた。
「ねぇ、オビト。今夜星を見に行かない?」
「へ?」
オビトはぽかんとした表情でそれを受け止める。
星を見に行こうというキーワードに、まるで想定外だと言わんばかりのその表情から、オビトも流星群のことは知らなかったという確証を得る。
一般的に星を見に行こうと言えば夏を連想させるものだし、オビトが驚くのも無理はないと思う。
断られるならそれも仕方ないかなとも思う。
でも……。
「都合が悪かった?」
いつもなら即行で答えるオビトにしては、珍しく返答に時間をかけている。この時間のかけ方はもしかしたら……。
都合が悪いようなら無理しなくていいからね、と付け加えようとしたタイミングで、
「いや! 大丈夫!」
オビトからこれでもかというほどの快諾が飛んでくる。てっきり断られると思っていたから一瞬面くらってしまう。
オビトの勢いに若干押されながらそれじゃぁ、と言葉を続ける。
「本当? じゃあ日が暮れたら秘密の場所の入り口に集合ね!」
秘密の場所の入口、という言い方で果たしてオビトはわかってくれるだろうかという不安はあったけれど、
「おう!」
と眩しい笑顔と一緒に気持ちのいい返事をもらい、私もつられて笑みになる。
じゃあまた後でね、と手を振って別れてから私も踵を返した。

「こんな感じかな?」
戸棚の奥の方に眠っていた大きめのお弁当箱に、おにぎり三種、卵焼き、お漬物を詰め込んでいく。
夕飯にするにはおかずの類が少ないけれど、これを食べることが主な目的ではないしいいかな。温かいお茶も忘れずに用意したし、これで準備は整った。
物置から敷物を引っ張り出して来て、それと風呂敷に包んだお弁当箱、お茶を入れた容器と湯呑を一緒に籠に入れる。結構ずっしりとした重さで、籠の持ち手がぎしりと軋み不安感を煽る。
壊れないかな? 大丈夫かな……?
何度か持ち上げたり下ろしたりを繰り返して、慎重に壊れないことを確かめる。
そうこうしているうちにオビトとの待ち合わせ時間が刻一刻と迫ってくる。外套を羽織って籠と灯りを持って、よし、と玄関の戸を開く。
戸が口を開けた途端に冷たい空気がやってくる。大きく息を吐き出すと朝以上にそれは視界を白く霞ませる。
体温を奪おうとしてくる寒さに負けないように歩いていると、いつの間にか待ち合わせ場所にたどり着いていた。空を見れば日はまだ暮れ途中で、かなり早く来てしまった。
時間をつぶそうにもここは里の外れで周りには何もないし、どこかへ行こうと思っても往復する間に待ち合わせ時間になってしまう。
それなら、誘った方が遅れるというのも恰好がつかないし、このまま待っていたほうがいいかなという結論に至る。
悴む指先を擦り合わせて暖をとっていると、紅く染まっていた空が徐々に明るさを落としていって、それに伴って少しずつ寒さも増していく。
ふと見上げると、確かに朝方おばさんに言われたように抜群に空気が澄んでいて、いつも見ている星空も綺麗に見える……気がする。
まだ日が暮れたばかりだからはっきりとは見えないけれど、これは流星群も期待できそうだなぁ。
しばらくの間ぼーっと空を眺めていると、遠くの方から声が飛んでくる。その方向へ顔を向けるとオビトが慌てた様子で向かってくるのが見える。
「ごめん! 遅れた!!」
「大丈夫だよ」
笑みを作ってオビトを迎える。
顔を真っ赤にして、額には若干汗をかいていて、その様子からここまで頑張って走ってきたというのがわかる。
汗を拭うオビトに向けて、
「また人助けしてたの?」
と問いかければ、オビトは目を丸くする。
「え、あ、うん……そうだけど」
「お疲れ様」
オビトのことだから、きっと今日も来る途中で困っている人を助けているのかなぁ、と思っていた。
オビトの反応を見る限りその通りだったみたいで、それならば遅れてきたことを私が怒れるはずがない。
任務の時は規則や時間を守ってほしいときもあるけれど、今日はそうではないし困っている人を助ける優しさというのは人として正しいことだと、そう思うから。
それじゃ、行こっか! と自分の言葉に区切りをつけて、くるりと進行方向へ体を向ける。
けれどいつまで経ってもオビトが動く気配を見せないものだから、不思議に思って首だけをオビトの方へ向けて様子を窺う。
「オビト? どうかした?」
「あ、いや。なんでもない」
オビトは小さく首を振ってから縫い付けられていた足を動かし出す。
オビトが灯りを忘れてきてしまったということで、今回は私が前を歩き、オビトは後ろをついて歩くことになった。
前に蛍を見に行った時は月明かりも届かない森の中を歩いたから手持ちの灯りしか頼るものがなかったけれど、今日は雲一つない星空鑑賞にうってつけの夜。月明かりも十分足元を照らしてくれているから手持ちの灯りに頼りきりにならずに済みそうで安心する。
その代わりこの辺は滅多に人が来ないからか、かなり雑草が成長していて歩くのに少し苦労する。……あの森の中に比べたら歩きやすいけれど。
しばらく森に沿って歩いていくと、鑑賞するのによさそうな、開けているところへ出る。
周りに高い木もないし、雑草のおかげで座るにはもってこいの柔らかさだし、いい感じかな。
「ここにしようか」
ちょっと待ってね、とオビトに言って、手にしていた灯りと籠を置いてそこから敷物を引き抜く。
それを一息に広げてふわりと地面に落とす。一畳分ほどの大きさしかないけれど、二人で座って荷物を置いても十分余裕はある。
履物を脱いでそこにあがり、一度座り心地を確かめてから、どうぞとオビトにも座るよう勧める。
灯りと籠を敷物の上に乗せて、風呂敷に包まれたお弁当箱とお茶を入れた容器と湯呑を取り出して、手早く準備をする。
「オビト、夕飯まだだよね? あんまり夕飯っぽくはないけれど、よかったら食べてね」
「ありがとう」
「あ、おにぎりは梅干しと鮭とおかかだよ。お茶は冷めちゃうから飲みたい分だけ入れてね」
「あ、うん……」
並んだお弁当箱を見て、オビトは目を見張って、曖昧な返事をこぼす。その反応に押し殺していた疑問、というよりも不安めいたものが首を擡げる。
作っている時も詰めている時も薄々感じてはいたけれど、やっぱり量が多かったのかな……。
オビトがどれくらい食べるのかがわからなかったから、詰められるだけ作ってきてしまったのだけれど、もしかしてオビトって意外と小食だった……? それとも体質的に食べられないものがあったとか?
でも今更悩んだところで仕方がないし、余ったのなら明日の朝ご飯にすればいいかなぁ、とぼんやり考えながら空を見上げる。
「わぁ!」
思わず声が漏れる。視界いっぱいに広がるのは漆黒の空に散りばめられた燦然と輝く星々。さっき見た時とは段違いの光景に言葉がうまく出てこない。
「おぉ……!」
「すごいね! 綺麗だね!」
ただただそんな言葉でしか表現できないけれど、この感動を黙って見ていることができなかった。
今まで見た星空の中でも圧倒的に星の数が多くて、綺麗以外の言葉を見つけられない。
蛍を見たときもそうだけれど、綺麗なものを見たときはそれ以外の言葉を喋ることができないのではないかというくらい、私とそしてオビトの口からは綺麗という言葉しか出てこない。
そして待っていたそれは合図もなく静かに始まる。
一筋、二筋。軌跡を描いてきらりと星が流れていくのを見て、つい興奮気味にオビトに声をかけてしまう。
「あ、オビト! 見てみて! 始まったよ!」
「うわ……なんだこれ」
数多の星が流れる様を見て零されたその言葉は驚きに満ちていた。その疑問にお節介とは思いつつも答えを差し出す。
「流星群だよ。ちょうど今日だったんだ」
「そうなのか! すげー!」
盛り上がっている最中、私の口は小さく、そして静かに言葉をこぼす。
「……オビトにね、見せたかったんだ」
もしかしたら聞こえなかったかもしれない。それならそれでいいと思った。これは半分以上私がやりたいからやったことで、その理由を絶対知っていてほしいというわけではないから。
けれどそれはちゃんとオビトの耳に届いていた。
「え?」
オビトは首を傾げて疑問符を浮かべている。言葉の真意を読み取れない、といった風に。
あのね、今日流星群を見に行こうって誘ったのはね――。
「夏に蛍を見せてくれたお返し」
オビトが私に蛍を見せてくれた時のように、私もこの流星群を見せてオビトの驚いた顔が、喜ぶ顔が、見たかった。
私の言葉を受けてオビトの瞳が大きく揺れる。
嬉しそうで、でもその中に驚きも混じっていて、その表情が、仕草が、ぎゅっと私の心臓を掴む。
私の希望通り、オビトは驚いて、喜んでくれた。それが嬉しくて、でもなんだか少しだけ照れくさくて。
「…………」
「…………」
心が落ち着かなくなって、逃げるように適当なおにぎりを両手に取ってから、そういえばおにぎりに何も目印をつけていなかったなぁ、ということに今更ながら気付く。
鮭か、おかかなら問題はないけれど、梅干しは家にあった結構酸っぱいもので作ったから、一気に食べるとあまりの酸っぱさにたぶん高確率で口の中をおかしくしてしまう。それくらい強烈なもので作ったから、オビトにもちゃんと注意しておかないと。
そう思いながら手にしていたうちの一つをオビトに差し出す。
「どうぞ」
「ありがとう」
「梅干しのおにぎりは――」
私が言い終わる前にオビトは大きくおにぎりにかぶりつく。あ……、と思った時には時すでに遅し。
「――っ!」
一瞬にしてオビトの瞳いっぱいに涙が溜まる。
その後すぐお茶の入った容器と湯のみを引っ掴んで、慌ててそれを流し込む。
渡したおにぎりが梅干しだったみたいで、オビトは思い切り眉間に皺を寄せている。
「大丈夫……?」
「大丈夫」
誰がどう見てもそれはやせ我慢以外の何物でもなくて、猶更申し訳なさを感じてしまう。こんなことなら渡す前にちゃんと注意しておけばよかった。
「ごめんね、梅干し酸っぱかったよね?」
オビトが手にしている湯飲みにお茶のおかわりを入れる。ふわりと柔らかく湯気が立ち上って、オビトはそれごと一気に口に含んで飲みこむ。
「いやあれくらいの方が保存に適してると思うし、オレは全然食べられたから大丈夫!」
「嘘ばっかり」
オビトの不器用な気遣いについ笑みを作ってしまう。
もう、そんなところで意地を張る必要なんてどこにもないのに。
その後オビトの手は少しばかり彷徨った後、卵焼きを手に取る。流石にまだ梅干しのよる痺れが残っているのか、中身のわからないおにぎりは手に取りづらかったのかもしれない。
卵焼きが余程気に入ったのか、それとも口の中の酸っぱさを和らげるためか、オビトは次から次へとそれを口の中に入れていく。
それからおにぎり片手に鑑賞会を続け、オビトが最後のおにぎりを食べきると同時に流星群が終わった。
興奮未だ冷めずといった感じだし、とても名残惜しいけれどアンコールを求めても叶わない。
それに少しずつ雲行きが怪しくなってきているし、この寒さの中これ以上外にいるのも少々厳しくなってきた。冷えた指先を摩擦熱で温めながらオビトへと視線を投げる。
「流星群も終わったし、雲も出て来たからそろそろ帰ろうか」
「そうだな」
私の提案にオビトはすんなり首を縦に振る。それを確認してから視線を下げる。そこには見事に空っぽになったお弁当箱。
「……それにしてもよく全部食べたね」
絶対余ると思ったのに。
心の声がそのまま漏れ出ていたのか、オビトは若干苦味を混ぜた表情を浮かべている。けれどそれも一瞬のことで。
「リンの作ったものが美味しかったからな!」
オビトから満面の笑みが返ってくる。こうも手放しで褒められるとお世辞だとしても嬉しくなってしまう。
「ありがとう。そう言ってもらえると作った甲斐があったよ」
言いながら風呂敷でお弁当箱を包み直して、お茶の容器と湯呑と一緒に籠の中に詰めていく。
敷物の上を綺麗に片付けて、せーの! と掛け声をかけて一緒に立ち上がる。
私が籠と灯りを持ち、オビトが敷物の端を持ってはためかせると、いつのまにか上がり込んでいた小石が愉快に踊って落ちる。
二つに折ってからくるくると丸めたそれを籠の中に入れたかと思うと、オビトの手がごく自然に私の手から籠と灯りを引き取る。
あまりにもそれが自然で、私はもちろんのことオビト自身も驚いた様子で一瞬時が止まる。
「え、あ、ありがとう……?」
「お、おう?」
お礼の言葉もなんだか疑問混じりのものになってしまうし、それを受けたオビトの返答も疑問符が浮かぶ。
「じゃ、じゃあ行くぞ……?」
「うん」
オビトが灯りを前に突き出して歩き始め、私もそれに続いた。

帰りも行きと同じように森に沿って歩いて行く。
足下からは小枝が折れる音や落ち葉が擦れサワサワとこそばゆい音を奏でる。そして森から聞こえてくる梟の鳴き声がどことなく恐怖心を煽ってくる。
恐怖心を振り払うように首を小さく振って、雲で覆われた空を見上げる。そして先ほどまでの星空や流星群を思い返して、一人で笑みを作る。
今日は蛍を見せてくれたお返しだったからオビトと二人で鑑賞会をやったけれど、今度はカカシやミナト先生、クシナさんも一緒に、みんなでわいわい喋りながら見ることができたら――もっと楽しいだろうな。
「オビト」
「なんだ?」
オビトが立ち止まってこちらに振り返る。灯りによってぼんやりと映し出される表情はいつもの、あの顔。
「また見に来ようね」
「そうだな!」
予想以上にオビトの明るい声が飛んでくる。
「今度はみんなも誘って」
「……そうだな」
「どうかした?」
「なんでもない」
オビトの声のトーンが急降下したことを不思議に思いつつも、いつの間にか伏せられてしまったオビトの視線の先に向けて右手の小指を差し出す。
それをじっと見て、オビトは不思議そうな顔をして首を傾げる。
「忘れないでね」
私の言葉に、今からやろうとしていることを察してオビトが小指を結んでくれる。
「忘れるもんか」
二人一緒に笑って、せーの、の合図で声を揃える。
「指切りげんまん」
「嘘ついたら針千本飲ーます」
「指きった」
忘れないから。
だから忘れないでね、約束だからね。