さようなら、はじめまして



小さい頃からずっとある女の子の姿が忘れられないでいる。忘れられない――というか鮮明に記憶に焼き付いているといった方が正しいのかもしれない。
その子は時折夢に出てくる子で、焦げ茶色の髪を顎のあたりで切りそろえていて、頬には紫のペイントをしている。白と黒でまとめられた服は質素だけれどその子にとても似合っていた。そしていつもきまって笑顔を浮かべていて、優しくオレの名前を呼んでくれる。オレはその子の笑顔と声がとても好きだったけれど、なんとも不思議な感じだった。
生まれてから三十年経つけれど、この女の子には一度も会ったことはないし見たこともない。それなのにその子はオレの名前を知っているし、呼びかけてくる。まるでとても仲が良さげに。小さい頃から知っている幼馴染のように。いや――死線を潜り抜けてきた戦友……仲間のように。
そしていつしかここまで鮮明に記憶に焼き付いているのだから、この子はオレにとって特別な存在なのかもしれないと思うようになった。そしてそれは決して憎しみや恨み、悲しみといった負の感情からくるものではない。あの子が笑っているのだからそれは間違いない、と妙な確信があった。オレ自身も何故そんな確信を持てるのかよくわからないけれど、あの子の笑顔はどんな言葉よりも説得力があるように感じられた。
いつか運命的な出会いをする日を夢見て――なんて言ったらさすがに女々しい気もするけれど、それでもいつかどこかで会えたらいいなと思う。
どこにいるのかも誰なのかもわからない、けれどオレにとって特別な思いを抱く人。
小さい頃からずっと記憶の片隅に佇む不思議な人。
君はいったい誰なんだ? 

「あら、オビトちゃん」
やっと終わった長期任務の報告を終え、ふらふらになりながら自宅へ帰る途中で背中に声がかかる。聞き覚えのある声に振り返ると、隣の家のばあちゃんが杖を頼りにこちらへ歩いて来るのが見えた。
「ばあちゃん、オレもう三十だぜ? オビトちゃんはよしてくれよ」
笑いながらそう言ってみる。
別に会話のとっかかりを作りたかっただけで、ちゃん付けが嫌なわけじゃない。オレはこの人を含めた近所のお年寄りによって育てられたようなものだから嫌になるわけがない。けれど、三十歳の男としてはいつまでも子ども扱いをされているみたいで少しだけ心がむず痒い。
「そうは言ってもねぇ。こーんな小さな時から知ってるんだもの。私からしてみれば息子とか孫みたいな感じなのよ」
可愛い笑みを浮かべて、ばあちゃんはいつものように手でオレの小さかった頃の身長を表すジェスチャーをする。そのしぐさも本当に孫を相手に話しているようでなんだか嬉しくなる。
「そりゃそうだけど……。そういえば今日はどこか出かけるのか?」
「あら? よくわかったわねぇ」
「服とか杖が余所行きっぽい感じだからなんとなくそうなのかなって思ったんだけど」
「これから病院に行くのよ」
病院、という単語にオレの表情は固まる。もしかして……なんて嫌な想像が一瞬のうちに頭の中を駆け巡る。オレの表情が強張ったからか、ばあちゃんは少し驚いたような表情をしたあと、大丈夫よと言葉を続ける。
「ただのお茶会よ」
「病院でか?」
病院とお茶会という単語が結びつかず首を傾げるオレに、ばあちゃんは「そうよ」と短く肯定する。
「昔からお世話になっているお医者さんの娘さんがね、あ、その人もお医者さんなんだけど、たまにはお茶でも飲みに来ませんかって誘ってくれたのよ」
なんだそれ、と喉まで出かかった言葉をなんとか飲み込む。病院で茶飲みとはまた変わった趣向だな……。
まあ、最近は近所の高齢化が進んで、みんな病院に入院だとか足腰が痛いだとかでなかなか外に出歩けなくなってしまっていて、茶飲みはおろか話し相手も減ってしまっている。行き先が病院というのは多少思うところはあるが、ばあちゃんがこんなに楽しそうにしているのだから水を差すのは野暮というもの。それにこんなばあちゃんを久しぶりに見たからだろう。それは自然と口からこぼれ出た。
「それ、どこでやるんだ?」
オレの問いかけに、ばあちゃんは再び驚いた顔をする。まさかオレが興味を持つとは思わなかったのだろう。正直オレ自身も結構驚いている。けれど一度口から出てしまったものは元には戻せない。なのでオレはばあちゃんからの返答を待つしかできない。
「えーっと、里の外れの方ね」
「里の外れ!?」
ばあちゃんの足で今から里の外れの方まで行くとなると日が暮れるんじゃないか? たとえ暮れる前に着いたとしてもそこから茶飲みをして帰るとなるとあたりはすっかり闇の中だ。いくら外灯があるとはいえ、夜にばあちゃん一人で帰ってくるのはなかなかに厳しい。
そうなるともう残された選択肢は一つしかない。本当は家に帰ってすぐさま布団に飛び込みたかったけれど、ここでばあちゃんを一人見送るのは心持ちが悪いし、何より絶対後悔しそうだ。後悔先に立たずなんて言葉はとっくの昔にオレの中に染み込んでいる。
「オレも一緒に行く」
「え? どうして?」
「どうしてって、オレもそっちの方に用事があるから」
本当は用事なんてないしついて行く口実を適当に作っただけだ。ただついて行くと言ってもばあちゃんは絶対遠慮する。なら嘘でも適当でもいいから口実を作って、同じ方向に行くからと言ってしまえば、流石に反対はしないだろうという思惑だ。
でもきっとこんな考えは全部お見通しなのだろう。けれどそれを言葉に出すほどばあちゃんも無粋ではない。全部飲み込んで優しい笑顔で包みこんでくれる。
「そう? じゃあ一緒に行ってくれる?」
「ああ。荷物持つよ」
「ありがとう。オビトちゃんは本当にいい子ね」
気恥ずかしくて誉め言葉を正面から受け取れず、曖昧な返事で茶を濁す。それを見てまたばあちゃんは小さく笑う。ますます居た堪れなくなったオレは閉口せざるを得なかった。

「着いたわ。ここよ」
途中、足が痛いと言うばあちゃんを背負ってきたからか、予定していた時間よりもだいぶ早く目的地へとたどり着くことができた。
そこは言葉通り本当に里の外れだった。扉のところに、のはら診療所と書かれた看板が無ければそれが診療所だとはわからないほどこぢんまりとした外見の、最早小屋と言っても差支えがない建物だった。辺鄙なところに建っているし建物の規模からいっても通院患者は少なそうだ。でも何故だか気持ちが温かくなるような感覚を覚える。
診療所に対してこの言葉を使うのが果たして正しいかどうかわからないけれど、ここからはどこか懐かしいような安心感があるような、とにかく嫌な感じは一切受けない。
不思議だ。ばあちゃんが病院というからてっきりあの独特の嫌な感じがするかと思っていたのに。ここはオレの知る病院とは全然違う気がする。
ゆっくりとオレの背から降りたばあちゃんはささっと着物の裾を整えてから荷物と杖をオレから受け取る。
「ありがとうね。重かったでしょう?」
「全然。ばあちゃん一人くらいなんてことないって。それに痛いの我慢して歩くの辛いだろ? ずっと世話になってるんだからたまにはオレにも頼ってくれよ」
「あら、オビトちゃんもかっこいいこと言うようになったわね」
こーんなに小さかったのに、と先ほどと同じジェスチャーをしながら、ばあちゃんは可愛らしい笑みを浮かべる。
「帰り何時頃になるか教えてくれたら迎えに来るけど」
「そこまでしてくれなくていいわよ。任務明けで疲れてるんでしょう?」
ばあちゃんは何でもお見通しだな。ただここで簡単に引き下がれるわけもない。
「ばあちゃんの迎えくらいで倒れるほどやわじゃないって」
似合わない笑みを浮かべると、ばあちゃんはそれじゃあ、と折れてくれる。
「悪いわねぇ」
「いいって」
これくらいのこと、たとえ任務明けでへろへろだったとしても、普段これでもかという程世話になっているのだからなんてことはない。むしろこういう時くらい頼ってほしい。ばあちゃんの役に立てるならとても嬉しいのだから。
ばあちゃんが診療所内に入るまで見届けようと、ふと視線を上げた時、扉がひとりでにその口を開ける。正確に言うなら、中から外に向けて扉が開かれた、というのが正しい表現なのだがそんなことどうでもよくなるくらいオレの視線はその扉を開けた人物に釘付けになる。
「こんにちは、早かったですね」
顎のあたりで切りそろえられた焦げ茶色の髪。優しい笑み。顔にペイントをしていないしオレの知るあの子とはかなり年齢が違うけれど、この顔は正しく――。
「ええ。この子に途中でおぶってもらったもので……あら?」
オレがじっと女性から視線を外さないものだから、ばあちゃんは困った笑みを浮かべる他ない。
けれど、けれど――。
ばあちゃんには悪いが、オレの頭の中は混乱と驚きと、そしてひと匙の喜びと嬉しさが入り混じってそれどころではない。
扉を開けたままこちらを見つめる女性はオレの夢に出てきたあの女の子にそっくりだった。もしあの子が年齢を重ねたらきっとこんな姿になるだろうという想像通りの外見をしている。
「あの、えっと……私の顔に何かついてますか?」
女性とばあちゃん、それぞれから困惑した表情を向けられて漸くオレは我にかえる。
「あ、え……っと」
我にかえったはいいが言葉が何も出てこない。何か言おうとすればするほど頭の中は真っ白になっていく。オレはもちろんのこと、ばあちゃんもそして女性も何を言うべきなのかわからず三人の間には沈黙が居座る。
けれどそれもほんの短い間で、その空気を壊したのは女性の方だった。
「あの、立ち話も何ですし中にどうぞ」
それはばあちゃんと、そしてオレに向けられたものだった。
「いや、オレは……」
「ほら行きましょう」
咄嗟に足を引こうとしたところでばあちゃんに手を引かれる。いきなりのことに頭がついていけず、オレは引かれるままに診療所へと連れ込まれる。バタンと扉がしまったところで漸く頭が現実に追いつく。
「ばあちゃん!」
「せっかく彼女が誘ってくれたのだから一緒にお茶しましょう」
その言葉自体は優しいものだったけれど、どこか断れない雰囲気が滲み出ていて、結局場の空気に流されるまま茶飲みに付き合うことになった。
茶飲み自体はいいのだが、問題はオレたちを迎え入れた診療所の先生という女性だ。
その容姿はどこからどう見てもあの子だ。
いや、待て、早まるな。まだあの子本人と決まったわけではないし、夢で見るときとは微妙に違うところがある。先生の方は顔にペイントをしていないし、背丈が、というかそもそも年齢からして全然違う。夢の中のあの子はせいぜい十代半ばくらいだったけれど、今オレの視界に映る彼女は少なく見てもオレより少し下か、もしかしたら同い年くらい。ということは二十代後半から三十くらいだろうか。
だけどここまで似ているなんてあるものか? それこそあの子が成長した姿ですと言われた方がまだ納得できる。
「どうぞ」
オレの思考を断ち切るように、目の前に湯呑と菓子が置かれる。白い湯気がふわりと立ち上り、茶のいい匂いが鼻を擽る。そういえばこんなにゆっくり茶飲みをするのって実は初めてかもしれない。
両親を早いうちに亡くしたオレは祖母や近所のお年寄りによって育てられた。それが不幸だったとは思わない。オレは祖母も近所のお年寄りも大好きだったし、皆オレのことを自分たちの息子や孫のように育ててくれた。いいことをすれば褒めてくれたし悪いことをすれば叱ってくれた。ガキの頃は外に出てやんちゃばかりしていたから怒られることの方が多かったけれど、愛情を持って育ててもらったおかげで真っ直ぐに育つことができた……と思う。
試験を受けて中忍、上忍となってからは任務に駆り出されることが多く、家に帰れない日も多かった。最初の頃は疲れすぎて休みの日となると大半を布団の上で過ごしたものだけれど、今は体力もついてきたし自分の限界を知っているから絶対に倒れるほどの無理や無茶はしないようにしている。
というのも、もう十五年以上も昔、ある任務中にオレは気を失うほど体力を使い果たし、祖母が倒れたという報せを受け取ることができなかった。そしてその場に駆けつけられなかったどころか祖母の死に目にも会えなかったという辛い経験をした。それは今でも心に大きな後悔を残している。だからそれ以来体力の限界を超えないと心に決めている。大事な人の最期の時に立ち会えないなんてもう二度とごめんだ。
祖母が亡くなってからは一人で茶を飲むなんてこともしなかったし、そもそもひっきりなしに任務に駆り出されるものだから家でゆっくりすることも殆どない。独り身だし任務に出ていた方が他のことを考えなくて済むから楽と言えば楽なのだが。
だからこうして茶と菓子を目の前にしてゆっくりとした時間を味わうというのは初めての経験でほんの少し緊張する。
「このお茶、美味しいわねぇ」
「本当ですか? よかったです」
オレ抜きで女性陣は何やら話で盛り上がっている。会話に混ざりたいわけではないけれど、ばあちゃんがべた褒めしているし、せっかく出されたのだからと湯呑に口をつける。一口含むと、口の中いっぱいに苦味と、そして茶独特の甘みが広がる。あ、確かにこれは美味い。続けて菓子を口の中に迎えると、これも上品な甘さで出された茶との相性がとてもいいことがわかる。
「お気に召してもらえましたか?」
急に話を振られ、驚いて湯呑と菓子に向けていた視線を上げると、いつのまにか彼女の視線がオレへと向けられている。
ドキリ、と心臓が一際大きく鼓動を打つ。
オレを見る瞳が、静かな笑みが、優しい声色が夢の中のあの子と繋がっていく。
やっぱり彼女は……あの子なんじゃ……? いや、でも……。
「お、美味しいです」
「そうですか、よかったです」
一度気になってしまうとどうにも落ち着かなくなってしまう。こんなこと、訊いてもいいものか悩むけれど、でも、訊いてみたいと思ってしまう。
手にしていた湯呑を置き、一度小さく深呼吸をしてからゆっくり言葉を選ぶように口を開く。
「あの……」
「はい、なんでしょう?」
柔らかい笑みを浮かべ、真っ直ぐな視線をオレに向けて、彼女はその後の言葉を待ってくれる。この仕草もやっぱりあの子と似ていて、ますます姿が重なって見えてしまう。それが、迷っていたオレの背中をほんの少しだけ押した。
「昔、夢に女の子が出てきたことがあって……その子があなたにとても似ていて、それで……」
しかし言葉を紡いでいくうちに、こんなことを言われたところで彼女が反応に困るだけではないか、と考えを改める。よく考えなくても初対面の男にいきなり昔夢に出てきた女の子に似てますなんて言われたところで、だからどうしたという話だ。互いに同じ夢を見ていればいざ知らず、そんな夢物語のような展開なんてあるはずもない。
こんなの、話したところで満足するのはオレだけで、彼女からしてみれば混乱を招くだけ。しかもオレ自身も言葉にしたはいいものの、これからどうしたいという展望なんてものもない。夢の中でしか見たことのない女の子にとても似ている人に会えたという事実だけで結構満足してしまっているし、恋仲になりたいなんて思うことも現段階ではない。ただ知り合いという仲にはなりたいのかもしれないけれど、本当に言いたかったから言っただけという状態だ。
一旦口から出てしまった言葉は二度と戻せないし、なかったことにもできない。
けれど今ならまだ間に合う。冗談です、という全てを台無しにする言葉を使えば多少疑念は残るだろうけれど、今後関係性を築いていく上で障害にはならないはず。
けれど彼女から返ってきたのは意外な反応だった。
「夢……? 私が……?」
言葉自体は困惑に満ちたものだけれど、その表情は驚きと、何故だか喜びのようなものが混じっているように感じる。どうしてそんな表情を浮かべるのかオレには皆目見当もつかない。
「あの、」
「先生!」
オレの言葉は突然、壊れるのではないかという勢いで開け放たれた扉によって遮られる。驚いたオレとばあちゃんの視線がそちらへ向くのと彼女が立ち上がるのはほぼ同時だった。
診療所に飛び込んできたのは老人を背負った若い男。男の慌てぶりとぐったりとした様子の老人からただ事ではない雰囲気を感じ取る。
「どうかしましたか!?」
「じいちゃんが突然倒れて、それで、あの俺……!」
男は状況を説明しようとするけれど、頭がうまく言葉を選び出せないのか、あのとそのを繰り返すばかり。
咄嗟にここにいては治療の邪魔になると判断して、そっとばあちゃんに耳打ちする。
「ばあちゃん、今日はここらへんで」
「そうね……」
立ち尽くす男と忙しなく診療所内を動き回る彼女に会釈だけして、オレたちは中途半端に終わってしまった茶飲み会を後にした。

その帰り道のこと。ばあちゃんと他愛のない世間話をしながらも、オレは彼女の表情を思い出していた。あんな突拍子もないことを言われたら驚きこそすれ喜びはしないと思う。自分で言っておいてなんだけれど、困ったり気味悪がられてもおかしくない内容だったはずだ。それなのにどうしてあんな、驚きと喜びが入り交じった顔をしていたのだろう。
「……なんでなんだろうなぁ」
「なんでだろうねぇ?」
思考を自分の内に留めきれなくて、気付かないうちに言葉が漏れ出していた。それをばあちゃんが優しい笑みで包み込んで返してくれたはいいが、考えていることが駄々洩れという事態に穴があったら入りたくなる。
「……ばあちゃん」
「なぁに?」
「今の、絶対誰にも言わないでくれよ」
「ふふ、もちろんよ。ついにオビトちゃんにも春が来たのかしらねぇ」
言っている意味がわからなくて首を傾げるけれど、ばあちゃんは可愛い笑みを浮かべるだけでその真意を教えてはくれなかった。

ばあちゃんと家の前で別れてから、なんだか家に入る気になれなくて、少しだけ夜風に当たろうかと家の塀に背中を預ける。
ずっとあの診療所での出来事が忘れられない。今まで夢の中でしかその存在を認識していなかった女の子にそっくりの女性が現れたのだから忘れられるはずがないのだけれど。
思えばオレは彼女の素性も知らなければ名前すらも知らないのに、ただあの子にそっくりだというその一点のみでここまで気持ちを傾けているのが少し不思議でもあった。相手のことを何も知らないのにどうしてオレはここまで彼女のことを考えているのだろう。夢の話を一蹴せずにちゃんと耳を傾けてくれたからか? それとも……?
「……はぁ」
柄じゃないというのは大いに理解しているし自覚している。けれど、こればかりはどうしようもない。
誰かに聞いてもらいたい気もするけれど、大の男が夢に出てきた女の子の話をするという絵面に苦い笑みしか出てこない。大半は笑い飛ばされて終わりそうだし、今までずっと心の内に秘めていたことを他人に話すというのはかなり勇気がいることだ。だけどこのままじゃ四六時中彼女のことを考えすぎて終いには声に出してしまいそうになる。
「……はぁ」
本日二度目のため息と共にこのもやもやとした気持ちを吐き出してしまいたかった。けれど現実はそううまくいかず、胸の奥には未だにもやもやが渦巻いている。
「オビトちゃん、元気がないのね」
突然話しかけられ、落としていた視線を急上昇させると、そこには悲しそうな表情を浮かべたばあちゃんの姿があった。家に入るまで見届けたはずなのに、どうしているんだ――と思ったけれど考えてみれば、ばあちゃんの家は隣で玄関の戸の開け閉めの音が聞こえるくらいなのだから、オレが家に入っていないことを不思議に思って出てきたのかもしれない。
「ばあちゃん、どうかしたのか?」
咄嗟に思考に蓋をして顔面に薄い笑みを貼り付ける。けれどそんな安っぽいごまかしはばあちゃんには通用せず、
「それは私のセリフよ。さっきからため息ばっかり吐き出しているみたいだけれど、どうかしたの?」
なんて心配されてしまう。さっきからため息ばっかり、ということはかなり前からばあちゃんはオレの挙動を観察していたのだろうか。それならそうと言ってくれればいいのに。いや……ばあちゃんだって好きで見ていたわけではないだろうし、単に話しかけるタイミングの問題だったのかもしれない。
「一人で悩むのもいいけれど、人に話すと簡単に答えが出たりするものよ?」
夜だから少しばかり感傷的になっているのかもしれない。ばあちゃんのその言葉に背中を押されるように、オレの口はゆっくりと語り出す。
「……オレさ、ガキの頃に知らない女の子が出てくる夢を見たんだよ。しかも何回も。女の子の方は親し気に手を振ってくれるんだけど、その子のことは見たことも会ったこともなかったからいつも不思議に思っててさ。どこの誰かもわからない、夢の中でしか見たことのない女の子だけど、オレはその子の笑顔と声がとても好きだった。……それから大人になって、ある日突然」
「その子に出会ったのね?」
「正確にはその子にとても似ている女の人……だけど。でもたぶん、夢に出てきた子とその人は同じなんじゃないかと思う」
「どうしてそう思うの?」
「顔がそっくりっていうのもあるけど、仕草とか声とかもそのままだし。ただ、夢に出てきた子とはちょっと違うところもあるから絶対的な確信は持てないんだけど……」
そこまで言って、ばあちゃんは一人納得したようにうんうんと首を縦に振る。
「それで昼間あんなこと言ったのね。いきなりオビトちゃんが夢の話とかするからてっきり口説き文句かと思っちゃったわよ」
「口説き文句って……。ばあちゃん、オレそんなに軽薄な男に見えるのかよ」
「いいえ、見えないわ。だけど、あの先生を見るオビトちゃんの目はとても真剣そのものだったからてっきり一目惚れをしたのかと思っていたけれど、そういう理由だったのね」
「一目惚れ……」
一目惚れ。その言葉の通り一目見て惚れること。
確かに、言われてみればそうなのかもしれない。診療所から顔をのぞかせた彼女を一目見て、目を離せなくなったのは事実だ。けれどそれは夢の中のあの子にそっくりだったからなのかもしれない――という疑念が晴れない。
オレが好きなのは夢の中のあの子なのか、それとも診療所で会った彼女なのか。
いっそのこと二人が同一人物であればこんなに思い悩むこともないのかもしれない。
「そういえばあの先生もびっくりしてたわねぇ」
「そりゃそうだろ……。いきなりあんな変な話をして驚かない人間なんていないだろ」
「うーん、でもなんていうのかしらねぇ。びっくりしてたけど、なんだか嬉しそうだったわよね」
「…………」
そこなのだ。普通、あんな変な話を聞けば怪訝そうな表情を浮かべてしかるべきはずなのに、診療所の彼女は驚きとそして喜びが入り混じる表情を浮かべていた――ように見えた。
「案外、先生もオビトちゃんと同じ夢を見てたのかもしれないわね」
「同じ夢?」
「そう。オビトちゃんが先生に似た子を夢に見ていたように、先生もオビトちゃんとそっくりの男の子の夢を見ていたのかも」
「そんな夢物語みたいな話……」
「ないとは言い切れないわよ」
オレの言葉に被せるように、ばあちゃんは少し身を乗り出してくる。いつにも増してぐいぐいくるものだからその勢いに呑まれオレは言葉を飲み込まざるを得なかった。普段、ここまで熱心に話すことのないばあちゃんが、珍しいこともあるものだと思う。
「あとはそうねぇ、その子は先生の前世の姿とか? それならそっくりの理由にもなるんじゃないかしら? ロマンチックでいいわねぇ」
にこにこと笑みを浮かべるばあちゃんはとても楽しそうだ。
というか、ばあちゃんってこの手の話好きだったんだな。まあ、オレも浮いた話がこれまでなかったし、いくら孫同然と思っていたところで男相手にこういう話をするのは気が進まなかったのかもしれない。
「…………」
ばあちゃんも冗談半分で言ったのだろうけれど、それにしても前世の姿……か。その可能性は全く考えていなかった。オレ自身としてはあまりそういった類のことは信じていないけれど、確かにそれならば容姿が違うことも納得ができる。あの子は彼女の前世の姿。だから頬にペイントもしているし姿も少女のまま。――ということは彼女の前世はあんな短い人生で終わってしまったのか……? それはとても悲しいじゃないか。
でもそれならなぜオレの夢に出てきたのだろう。しかもとても親し気に話しかけて、名前を呼んでくれた。もしかして前世のオレはあの子と知り合い……いやそれ以上の関係だったとか? それにしたって他人の夢だぞ?
考えれば考えるほどわからなくなる。
云々とうなるオレの隣でばあちゃんが「若いっていいわね」と小声で呟いたのが聞こえる。少しだけ恥ずかしくなって、オレはそれを聞かなかった振りをして誤魔化した。

その日布団に入ってから久しぶりに夢を見た。
あの女の子が出てくる夢――なのだが、それはいつも見ているものとは少しだけ違った。
いつもならオレの名前を呼ぶことしかしないあの子が今にも泣きだしそうなくらい目に涙を溜めている。けれどそれは決して悲しみからくるものではなく、満面の笑みを浮かべてむしろ嬉し涙のような温かいもの。
「やっと会えたね」
「見つけてくれてありがとう」
それだけ言うと、あの子の体が徐々に透けていく。今までこんなことなかっただけに、一瞬思考が停止する。
「待ってくれ!」
まるでこれから先会えなくなってしまいそうな雰囲気に圧され必死に手を伸ばす。けれどすでにそこには何もなく、オレの手はただただ空を掴むだけ。
何も触れられなかった手のひらをじっと見つめているとぽたりと水滴が落ちる。それが自分の涙なのだとわかる頃には、手のひらに小さな水たまりができていた。
どうして泣いているのかわからない。
悲しいのか、寂しいのか。それとも――嬉しい……?
自分の中に渦巻く感情に理解が追い付かない。
悲しくて涙を流す。寂しくて涙を流す。これはわかる。けれど、どうして嬉しくて涙を流すのだろう。目の前で、ずっと好意を寄せていた女の子の姿が消えてしまったのに。
今までこんなことはなかった。いつも見る夢ならばオレが目を覚ますまであの子はずっと夢の中に存在していた。笑って、名前を呼んで、手を振ってくれたりしたこともあった。それが今日に限ってはまるで存在自体が消滅してしまうかのように透けて、見えなくなって、消えてしまった。
悲しいはずなのに、寂しいはずなのに、なぜそこに嬉しいという感情が入ってくる……? おかしいじゃないか。なんで嬉しいんだ。どうしてオレはあの子がいなくなってしまって少なからず喜んでいるんだ。
わからない。わからない。
結局あの子のことを何も知れず、そしてオレ自身の感情の波さえも読み取れず、陽の光によってオレの意識はゆっくりと夢の世界から脱却した。


茶飲み会から数日。ばあちゃんがまたあの診療所に行くと言うのでオレも付き添いという名目でついて行くことにした。道中、世間話をしながらも、オレの胸の内は先日の夢のことで埋まっていた。
あれからまた色々と考えてはみたものの、やっぱり結論はわからない、に落ち着いてしまう。そもそも夢の中でのことを何を真剣に考えているんだか……と思う。けれど、オレにとってあの夢は特別で、あの子に会える場というのが夢の中でしかなかった。だからあんな不穏な感じの幕引きをされてしまうと余計気になってしまう。まさか本当にもうあの子には会えないのだろうか……。
ぼんやり歩いていたからか、途中何度か躓きそうになり、その都度ばあちゃんに注意をされながらオレたちは診療所へとたどり着く。
オレが何度か深呼吸をしている間にばあちゃんはさくさくと扉の前まで歩いていってしまう。それを追いかけて漸くばあちゃんのすぐ後ろまでたどり着いたところで診療所の扉がゆっくりと開かれる。
「こんにちは」
この前と変わらぬ優しい笑みに出迎えられてオレの心臓が少しだけ早くなる。
「こんにちは、先生」
「こん、にちは……」
「どうぞ中へ」
言われるがまま中に招かれると、すでにそこにはこの前と同じく茶飲みの準備がしてあり、室内はあの茶の香りで満たされている。
「そろそろいらっしゃるだろうと思って準備してたんですよ」
そう笑いかけて彼女はオレとばあちゃんが席についたところで急須から湯呑へ茶を注ぎ入れる。どうぞと差し出された湯呑を両手で包み込んで視線をそこへ落とすと、鮮やかな緑色と微かな湯気がゆらりと揺らめく。
「この間はすみませんでした」
着席して一番にかけられた謝罪に、いったい何のことを言っているのか一瞬わからなくてオレもばあちゃんも首を傾げる。けれどすぐに急患のことなのだと察する。
「そんなそんな。お医者様なのだから急患の方を助ける方が大事じゃないの。気になさらないで」
「はい……」
目を伏せる彼女にばあちゃんは優しく笑いかける。
「今日もお茶が美味しいわね」
「……ありがとうございます」
ほんの短いやり取りだけれど、少しだけ彼女の表情が和らいだ気がする。さすがばあちゃんだ。
医者なのだから怪我人、病人を優先することは当たり前であるはずなのに、この人は先客であったオレたちを放ってしまったことにまで罪悪感を感じている。人が良いというか、根が善良というか。他人にここまで気を遣わなくてもと言いたくなるくらいこの人の優しさは底知れぬ大きさがあるように感じる。
「…………」
「…………」
「…………」
会話が途切れると訪れるのは静かな時間。どうにも居た堪れなくなって何か話題はないものか、と思うけれど今まで異性とは任務の連絡や必要最低限のことしか話してこなかったせいでこういう時、気の利いた話題が全く思い浮かばない。
ちらりと隣を見てみると、ばあちゃんは出された茶と茶菓子を楽しんでいて会話をしようという気配が見られない。それならば、と今度は正面を見てみるも、こちらも同じ。この二人は沈黙を物ともしてなくて、むしろこの静けさすらも楽しんでいるようにも見える。オレ一人が沈黙に耐えきれなくてあたふたとしているみたいだ。
とりあえず心を落ち着けようと出された茶を一口含む。うん、相変わらず美味い。よっぽどいい茶葉を使っているのかそれとも淹れ方が上手いのか、ここで飲む茶は今まで飲んできたものの中で一番美味い気がする。
はぁ、と小さく息を吐き出すと途端に二人から小さな笑い声が漏れ出す。
「ふふ……」
「なんだかジジ臭いわねぇ」
「ジジ……!?」
どうやら二人はオレの一連の動作を見て堪えきれずに笑ってしまったらしい。なんだか納得いかないが、重苦しさを感じていた沈黙がなくなったのでよしとしよう。
「お茶、おかわり淹れますね」
そう言って彼女が急須を取り上げると同時にまたも診療所の扉が勢いよく開かれる。
入ってきた人物は全身泥まみれで、年甲斐もなく泥遊びでもしたのかというありさまだった。けれどそんな呑気な考えはすぐに捨て去ることとなる。
「先生大変だ! 近くの斜面で土砂崩れがあって何人か巻き込まれちまった! すぐに来てくれ!」
「わかりました」
彼女は一度オレたちに頭を下げると、そのまま隅に置いてあった大きなカバンを持って、男の後を追って診療所を飛び出していく。
今のを聞いて黙ってここで茶を飲んでいられるほどオレは呑気じゃないし無神経でもない。
「ばあちゃんは危ないからここにいろよ!」
「え……!? あ、オビトちゃん!」
ばあちゃんに言葉を投げると同時にオレも彼女の後を追う。すぐに出たからか、二人にはすぐに追いつくことができた。
「荷物持ちます」
「え!? どうして……」
「こういう時は人手がいると思って」
「でも」
「それにオレはこういう事態に慣れてます」
「……わかりました。お願いします」
オレの言葉をどう受け取ったかはわからないが、それ以上彼女は口を開くことなく走ることに専念する。
いい加減走ったところでようやく現場へと到着する。
「……っ!」
そこは悲惨という単語が相応しい状態だった。
数日前に降った雨のせいで地盤が緩くなっていたのか、目で見える範囲全てが土砂で埋まっている。それに加えて木々や岩なども散見でき、斜面の上の方へ視線をやれば、またいつ崩れるかもわからない危険な状態となっている。何人かが救出作業をしているようだけれど、人数が少なすぎて全然捗っていない。状況を鑑みても一刻の猶予も許されない。慌てず焦らず、けれど迅速に作業を進める必要があった。
指で印を結びチャクラを練る。ボンッという音と共に影分身が姿を現す。
「……!」
忍術を初めて見たのか、彼女は目を丸くしたままオレを凝視する。そんなに驚くものなのかと思うけれど、突然目の前に同じ男が何人も現れたらそりゃ見慣れない人間はこうなるのかもしれない。
「オレが救助してきます。えっと……先生はここで治療の準備をしててください」
「は、はい」
彼女の名前を呼ぼうとして、そういえば名前を知らないことに思い至る。あんなに色々と考えたり思ったりした相手だというのに、肝心の名前すら知らないなんて。無事終えたら自己紹介から始めなきゃだめだな。
彼女に見えないように苦笑を漏らす。
土砂を掻き分けている男達に合流し、手早く概要を聞いた後、分身体を方々に散らばらせ救出作業にあたった。

「あと何人だ?」
汗を拭いながら泥だらけになっている男に問いかける。男は救出した人数を数えて頭の中で人数合わせをする。
「いや、これで全員だ」
「そうか」
大きく安堵のため息を吐き出してチャクラ温存のために一度分身体を消す。少しばかり休みたいけれど、一番動き回っている彼女に比べたらオレの疲労なんてものは比べ物にならない。
オレたちが救出した怪我人はこの場でできる最低限の応急処置をしただけでこれから彼女の診療所で対応できない重傷者は他の病院に搬送しなければならない。オレでは怪我の程度がわからないから診断、応急処置、搬送判断まで全部彼女任せになってしまっている。致し方のないこととはいえ、胸が苦しくなる。
「あの!」
大きな声に呼ばれ彼女の方へ視線を向けると、ちょうど最後に運んだ怪我人の治療が終わったのか、顔を上げてオレへ手招きしているのが見える。急いで駆けて行くと彼女から搬送の指示を受ける。
「あっちの三人とそこの人、それとあの人を救急病院へ、その二人は最寄りの整形外科へ、この人は軽傷なのでうちで治療します」
「わかりました」
彼女の指示をそのまま他の男たちにも伝える。再び影分身を作り出し、細心の注意を払って手分けして怪我人を病院へ運んでいく。
一人、また一人と運び出し、最後の一人を運ぼうとした時――だった。
カラリ……――カラン。
小さな音だった。硬いものが硬いものに当たって転げる音。ここで聞こえる音の中で一番不穏で不安を掻き立てる音。
嫌だ。やめてくれ。嘘だと言ってくれ。
そう、願いながらゆっくりとその音のした方へ首をやると、微妙なバランスで保っていた大岩が土砂と共に徐々に速度を増して下ってくるのが見えてしまった。
それは、およそ避けきれる物量ではなかった。――いや、オレ一人ならばなんとかなったかもしれない。けれどここにはまだ運びきれていない最後の一人と彼女がいる。
思った時には体が動いていた。二人をなるべく巻き込まれないところまで突き飛ばす。
「――!」
どうにかしてオレの腕を掴もうと彼女の手が伸びる。けれど、それが届くことはなく。襲い来る衝撃に耐えきれず大岩と土砂にオレの体は飲み込まれた。

「――待ってる! ……から! ……約束――!」
「……――ト。……約束――」
「ああ、約束――」
ノイズがかかって途切れ途切れになった会話。聞き覚えのある声のはずなのに、ぼんやりとした頭でそれを聞いているせいか内容が全く頭の中に入ってこない。
心のどこかでは懐かしいと思うのに、どこか悲しくて寂しくて胸が苦しくなる。どうしてオレはこんなにも泣きそうになっているのだろう。
「――じゃあね、オビト」
「ああ……またな、■■」
急に視界が真っ黒に塗りつぶされて、声が聞こえなくなる。それどころか重力さえもなくなったように体が宙に投げ出される感覚に襲われる。このままではどこか自分の知らないところへ飛ばされてしまいそうで、何かに捕まりたくて縋りたくて必死に手を伸ばす。けれどオレの手は何かを掴むことは叶わない。
このまま闇に溶けて消えてしまうのか。
それは……なんだか嫌だ。
どうして?
なんで?
理由を考えているうちにどこからか声だけが響いてくる。
「オビトちゃん」
ばあちゃん。診療所で待つよう言っておいたから大丈夫だと思うけれど、無事だよな……?
「……――」
そういえば結局彼女には夢の話のこともあの子との関係も、名前すらも聞けなかったな……。一度でいいからちゃんと名前を呼んでみたかった。あんなに素敵な人なのだからきっと名前も素敵なんだろうな……。
他人からしてみればそんなこと、と鼻で笑われてしまうようなちっぽけでささやかな未練のようなもの。だけど、オレには大きくて大切なことで、このまま消えてしまうことを拒むには十分すぎる理由。もう一度手を伸ばすに足る支え。
再び右手をぐっと前に突き出すと、今度はそれを掴んでくれる温かい手があった――気がした。

「…………」
重い瞼をゆっくりと開ける。目に入ったのは清潔感漂う白色。なんだろう、とぼやけた視界をはっきりとさせるために何度か瞬きをすると次第にそれははっきりと映し出される。
白い天井。視界の端にも白いカーテン。自宅ではないというのは一目でわかったけれど、じゃあいったいここはどこなのだろう。懸命に記憶を辿ろうとしてもぽっかりと穴が空いてしまったかのように思い出せない。この真っ白い場所に覚えがないからか本来であればそんなことを感じないような天井もカーテンもなんだか不気味に思えてくる。
視界から得られる情報が少なすぎてどうにも判断がつかない。ひとまず起きて視線を上げようと上体を起こしたところで自分の体の異変に気付く。
肩口から腹部にかけての部分と両腕には仰々しく包帯が巻かれている。右腕には点滴の管が繋がれていて、如何にも大怪我を負いましたという状況に頭の中は更に混乱を極める。
包帯や点滴といった部分でここが病院であることはわかったけれど、ではなぜ自分がこんな大怪我をしているのか、それがわからない。
「オレ……いつこんな大怪我を負ったんだ?」
ぼそりと声に出してはみてもそれに返ってくる言葉はなく。結局しばらくしてから定期巡回に来た看護師と医師によってオレの疑問は解決されることとなった。

「一週間!?」
「はい。ここに運ばれてきてから今日まで一週間、あなたは意識が戻りませんでした」
てっきり階段でこけたのだろう、くらいの認識だったからまさかそんな大事になっているとは露にも思っていなかった。担当医師による淡々とした説明を聞きながら、記憶が徐々に戻ってくるのを感じる。
そうだ。オレは土砂崩れがあった現場で救助活動をしていて、それで最後の一人を運ぼうとしたところでまた土砂崩れが起きて、それで……。
脳裏に蘇る一人の女性。そうだ……! あの人は!
「あ、あの! オレのほかに同じ日に運ばれた人っていましたか!? こげ茶色の髪の女性とか!!」
オレの掴みかからんとする勢いに医師は一瞬目を丸くしたけれど、すぐにこほん、と一つ咳払いをして息を正す。
「いませんよ。あの日の急患は男性だけです」
「そう、ですか……」
よかった、と一つ安堵のため息を漏らす。
彼女はすぐそばにいた。だから最悪巻き込まれてオレよりもひどい怪我を負っていたかもしれない。けれど運ばれたのが男だけだというなら彼女はちゃんと助かったということだ。
「それにしても運が良かったですね」
「え?」
医師の意外な一言にオレはわずかに首を傾げる。
あんな土砂災害に巻き込まれて運がいい? どういうことだ。
「あなたがここに運ばれてきた段階でおそらく現場でできる最善の処置が施されていました。あんなに綺麗で丁寧かつ適切な処置はなかなかできるものではありません。よほど腕のいい医師がその場にいたんですね」
「腕のいい、医師……」
あの場にいた医師は彼女だけ。あの後どこからか応援が駆け付けたのかもしれないけれど、不思議とその医師はあの人以外いないだろう、という確信めいたものがある。なぜそんな確信を持てるのか、自分でもよくわからないけれど。
「経過次第ですが、あと数日もすれば退院できると思います。ですが退院してもすぐには任務復帰はしないでください。傷口が開きますよ」
笑顔でそれを言うのか、と出かかった言葉を慌てて飲み込む。わかりました、と頭を下げると医師はお大事にとお決まりのセリフを残して病室を去っていった。

「本当に目が覚めてよかったわねぇ、オビトちゃん」
「ばあちゃん、それ何度も聞いたよ」
オレが目を覚ましたというのをどこからか聞いたのか、ばあちゃんは毎日のように見舞いに来てくれる。足が悪いんだからこう毎日来なくてもいいと言ってもばあちゃんは聞きやしない。むしろ意固地になっているようにも見える。
「明日で退院だってね」
「ああ。ていってもまだ任務には戻れないからしばらくは家で安静にしてろって言われてるけどな」
苦い笑みを作って見せると、ばあちゃんは少しだけ悲しそうな色を混ぜて笑う。しまった。言葉選びを失敗した。ばあちゃんにこんな顔させるなんて何やってんだ、オレは。
「そうだ、ばあちゃん。あの先生は元気か?」
空気を変えるために今まで気になっていたけれどなんとなく訊くことを臆していた話題に踏み込む。
「そうねぇ、それは自分の目で確かめたらいいんじゃないかしら?」
「どういうことだよ?」
オレの疑問を無視してばあちゃんは両手を胸の前でぱちんと合わせる。
「そうだ、退院したらあの先生の所へ行きましょう。ちゃんとお礼もしたいでしょ」
「え? ああ、そりゃまぁ……」
「決まりね」
消化不良な思いはぐるぐると胸の内で渦を巻く。結局それ以後彼女の話をしてもはぐらかされるだけで終わってしまい、面会時間を終えるとばあちゃんは何故だか楽しそうに帰っていった。

翌日、退院をして一通り荷物の片づけを終えた後、ばあちゃんと共にあの診療所へ向かった。道中はなんともなかったというのに、診療所に到着して扉の前に立った途端に心臓がこれでもかとがなり立てる。
自分自身のことのはずなのに、どうしてこの扉をノックするのにこんなにも緊張しているのかがわからない。とりあえず大きく息を吸い込んでゆっくり吐き出してはみるものの、状態は全然変わらない。さすがにオレの異変を察したのか、背中にばあちゃんの声がかけられる。
「オビトちゃん……? どうかしたの?」
「あ、いや……、なんでもない」
振り向きざまに笑顔を貼り付けて答えてから意を決して扉をノックする。すると少し間をおいて中から「どうぞ」と小さな声が聞こえる。それを確認してから静かに扉を開ける。
「こんにちは」
「こんにちは……」
机を見るとそこには以前と同様にすでに茶飲みの準備がされていて、まるでオレたちが来ることを予期していたかのような準備の良さが見て取れる。まさか毎日こんな感じで人を出迎える用意がしてあるとも思えないし、いったいどうして……? けれどその疑問も彼女とばあちゃんの会話によってすべて解決する。
「時間通りでしたね」
「ええ」
なんだ、ばあちゃんがあらかじめ到着予定時刻を知らせていたのか。
「今日は休診日にしてますのでこの間みたく誰かが駆け込んでくることはないと思います」
そう言って、彼女はオレとばあちゃんを椅子に勧める。着席したのを確認したのち、彼女は急須へ湯を注いでしばらく蒸らしてからそれを湯呑に順番に注ぐといつものあの香りが漂ってくる。不思議と心穏やかになれるいい匂い。あんなに大騒ぎしていた心臓もいつの間にか静かになっている。
「どうぞ」
「ありがとう、ございます」
「…………」
「…………」
差し出された湯呑と茶菓子の皿を受け取ったまではよかったけれど、それ以後会話が途切れてしまう。
言うべきことはあるのに、なぜかそれを口に出せない。だけど結局沈黙に耐えきれなくなってオレの口は言葉を選びながらゆっくりとそれを音に乗せる。
「あの」
「……はい」
「この間は助けてくれてありがとうございました。あなたですよね?」
オレの感謝の言葉に彼女の目が少しだけ見開く。
「よく、わかりましたね」
「あの場にはあなたしか医者はいなかったですし、それに病院で担当医からあなたらしき人がオレを病院へ運び込んできたと聞きました。それと……」
それと奇妙なことを言っていた、とも聞いている。これは訊いてもいいことなのか、踏み込んでもいいものなのか心が決まらない。でもここまできた以上、引き返すことはもうできないのかもしれない。
一つ息を吐き出して彼女の瞳をまっすぐ捉える。
「それと、あなたが重傷のオレを引き渡す時に、また助けられなかったら嫌だというようなことを言っていたことも、聞きました。……オレとあなたは、この前初めて会ったはず、です。だからそんな言葉が出てくるのはおかしいんです」
「…………」
オレのたどたどしい言葉を彼女は真剣な面持ちで聞いてくれる。
「あなたは……オレが夢に見たあの女の子とそっくりなあなたは、いったい誰なんですか……?」
「私、は……――」
訊きたかったこと、疑問だったことを出し尽くす。彼女は一度目を伏せて、何かを決意したかのように再び顔を上げる。
「こんなことを言っても信じてもらえるかどうかわからないんですが……。私には、おぼろげながら前世の記憶……のようなものがあるんです」
「……前世の、記憶?」
いきなり突拍子もない話で始まり眉間に一本皺が増える。まさか前世の記憶だなんて言葉が出てくるなんて思いもよらなかった。医者が口にするにはあまりにも現実からかけ離れているんじゃないか?
「はい。幼い頃からそれはあって、自分の見たことのない風景、聞いたことのない声、経験したことのない感情が寝ている間に時々夢として再現されました。最初はそれが何なのかわからなくて、ひたすら困惑しました。けれど何度かそれを見て、もしかしたらこれは私の前世のことを見ているのかもしれない、と思うようになりました。医者の家系に生まれたのに前世なんてものの存在を信じて、私自身非現実、非科学的なことをしているというのはわかっていました。けれど、そうでなければ説明がつかなかったんです」
どこか苦しそうに言葉を紡いでいく彼女。それもそうだ。聞く人間が違えば一蹴されてもおかしくない話題なのだから。けれどオレにはそれが冗談とも笑い話とも聞くことができなかった。
「……具体的にはどんな夢を見てらしたの?」
ばあちゃんがとてもやさしい声色で言葉を奏でる。
「この里の忍として生きた夢でした」
彼女の視線がちらりとオレへ向く。瞳の奥には迷いと躊躇が混じっていたけれど、何度か瞬きをするうちにそれは薄れていく。
「私と白銀髪の男の子とそれとあなたとで三人一組を組んで任務に奔走していました」
「は? ……え?」
突然出てきた自分の存在に驚きを隠せない。いま、なんて……? オレと三人一組?
余程顔に出ていたのか、ばあちゃんが横腹を軽く小突いてくる。それによって少しだけ冷静さを取り戻す。
「……そんな夢を幼い頃から見ていたので、あなたに初めてお会いした時、とても驚きました。最初は随分顔の似ている人だなって思いました。だけど、細かな仕草が、他人を思いやる優しい心が、夢の中でしか見たことがなかった男の子そのもので、次第にこの人はあの男の子の生まれ変わりなんじゃないかって思うようになりました」
同じだ。この人もオレと同じ経験をしたんだ。ただ、オレは色々と考えてはみたものの、結局一番現実味のある、あの子とこの人は同一人物なんじゃないかという当たらずとも遠からずな結論で考えるのをやめてしまったけれど。
「前に、夢に私に似た子が出てきたって言ってましたよね? どんな子でした?」
問いかける瞳はまっすぐにオレを見つめている。優しさの中にも知りたいという好奇心が混じっている。
「どんな子……。えっと、髪はあなたと同じくらいで頬に紫のペイントをしてて、上下黒の服に白い腰巻をしてて……」
優しい声に花みたいな笑顔を浮かべる女の子でした、とはさすがに恥ずかしくて言えなかった。勢いで一方的に好意を持っていましたとまで言いそうになったからだ。
「そうですか……。あなたが夢に見た女の子はおそらく前世の私だと思います。夢の中で写真を見たことがあって、そこに映っていた姿が今言った特徴に合致します」
「オレが夢で見てたあの子は、あなたの前世の姿だった……?」
「おそらくは」
「そう、ですか」
こんな物語みたいなこと、普通に考えれば信じられないだろう。けれどオレは現に経験してしまっている。だから彼女の言葉を戯言だと一蹴することはできない。
それに納得、というか得心はいった気がする。確かにあの子の服装は言われてみれば今の時代にはそぐわないものだった。一昔、いやもっと前のものといっても過言ではなかった。
「あとはそうねぇ、その子は先生の前世の姿とか? それならそっくりの理由にもなるんじゃないかしら? ロマンチックでいいわねぇ」
前にばあちゃんが言っていたことを思い出す。あの時は冗談半分だろうと思っていたけれど、まんま正解だったわけだ。
でも、そうか……。あの子は今の時代を生きている子ではなかったのか。なんだか寂しいような気もするし、心のどこかではほっとした気もする。これでオレの初恋……とも言えない淡い思いは終わってしまったけれど、ずっと昔に生きた子だというなら仕方がないと諦めもつく。
じゃあ、と今度は以前も考えた疑問に視点が移る。オレが夢に見ていたあの子はずっと昔に生きていた、この人の前世の姿とするならば、じゃあなぜオレの夢に出てきたのだろう。自分の前世なら……まぁ、あまりあり得ないことだと思うけれど、夢に出てくるとかはあるかもしれない。けれど他人の前世を夢に見るなんてそれこそおかしいじゃないか。
「これは、私が勝手にこうだったらいいなという憶測で言うんですけれど」
と前置きをしてから、彼女は慎重に言葉を選ぶ。
「私の前世とあなたの前世には何か強い絆……というか縁のようなものがあって、それが要因となってあなたの夢に私の前世の姿が出てきたのではないかと思いまして……。ただこれは本当に私の願望というか、その」
事情を知らない人間からしてみれば彼女の言葉はとても滑稽に聞こえるのかもしれない。もしくは戯言だと言われる類のものなのかもしれない。けれどオレにはその考え方がとてもしっくりきた。そうだったらいいな、と思えるほど好意的に聞こえた。だからここは取り繕わずに素直な言葉を口にする。
「オレもそうだったらいいなと思います」
「……! ありがとうございます。ただ、こんな話をしましたが、私はあなたに前世の姿を重ねて見ることはしません。たとえ前世の私たちがどんな仲であったとしても、私はあなたとはじめましてから始めたいと思っています」
「……はい」
同意するように小さく頷くと、彼女は花のような笑みを浮かべ右手を差し出す。
「ずいぶんと遅くなってしまいましたがはじめまして、のはらリンです」
その手を取って、オレも不器用な笑みを作って言葉を返す。
「はじめまして、うちはオビトです」
さようなら、初恋。
はじめまして、――■■。